2020年3月1日 受難節第1主日
聖 書 申命記8章2~4節 (旧約p294)
ルカによる福音書4章1~13節(新約p107)
受難節(レント)について
先週の水曜日から受難節に入った。レント、四旬節と呼ばれたりする。また、大斎と表す教派(ロシア正教、聖公会、カトリック)もある(読み方は、それぞれ「おおものいみ」「たいさい」「だいさい」であるが)。
レント(lent)という言葉は、もともとゲルマンの言葉で春を意味している。
主イエスの受難(十字架への道行き)を覚え、主イエスに従う、主イエスに倣う、ということを意識する期間。
40日間の意味―苦難、神との出会い 悔い改めの時 を意味。
懺悔、善行に励むこと、犠牲の精神を持つ 禁欲 に導かれる
すなわち復活祭を祝うために、生活に結びついた信仰を新たにしていくことを意味している。
ドイツでは、「~なし」の7週間として覚えている、とのこと。
今年は、「悲観主義なしの7週間」とのこと。
ちなみに昨年2019年は「うそのない7週間」、2018年は「逃げることをしない7週間」。
40という数字―
出エジプトしたイスラエルの民がさまよった年数(民数記14:34)。
モーセが十戒を授かるときに、シナイ山に留まった日数(出エジプト34:28)
エリヤがアハブ(イザベル)から逃れてホレブ山に辿り着くまでの日数(列王記上19:8)
ヨナが、ニネベに遣わされ、あと四十日たつとニネベは滅びると宣言した。(ヨナ3:4)
ノアが、洪水の後、150日経って水が引き始め、山々の頂が見えてから箱舟から烏を放った日数(創世記8:6)
主イエスが、宣教活動に出る前に、荒れ野で40日間断食をし、悪魔(試みる者)の誘惑を受けた。(マタイ4:1-11,マルコ1:12-13,ルカ4:1-11)
復活された主イエスが、昇天まで弟子たちと共に過ごした日数。(使徒言行録1:3)
誘惑を退ける主イエス
主イエスが悪魔の試みを退けた。
わたしたちを襲う誘惑のモデルがある。
1 食欲、物欲、貪欲 2 支配欲 偶像礼拝 3 神を試そうとすること
1(食欲、物欲、貪欲)について
主イエスは断食の後、空腹を覚えられた。
悪魔は、超自然的な力で、石をパンに変えてみろ、と言う。
現代的な解釈ができるところではないか。
石をパンに変えて、空腹を満たそうとすること=本来、人の空腹を満たすことができないもので、空腹を満たそうとすること。→本来、人を満足させることができないもの(事)で、欲望を満たそうとすること。
先週の教区農村伝道協議会―キリスト者であり生産者である方々。誠実に土と向き合い、なるべく化学肥料を用いない、農薬を用いない農業を実践。
共働学舎 宮島信さんのお話―経済や効率を優先させる社会や人の在り方を問う。
効率や経済を優先させるために、自然の秩序を破壊する現代社会の姿。石をパンに変えようとする社会ではないか。
主イエスは、神の言葉によって、誘惑を退けることができた。 「人はパンだけで生きるものではない。」→この言葉は、もともと申命記8:3の言葉。この申命記の言葉には続きがある。
「…人は主の口から出るすべての言葉によって生きる…」
主イエスは、神の言葉に従い、神の言葉によって生きた方。
2(支配欲、偶像礼拝)について
悪魔は、主イエスに世界の全ての国々を見せて、「この国国の権力と繁栄を与えよう。それは、わたしに任されていて、これと思う人に与えることができる。だから、わたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と言った。
悪魔を拝むことで、この世界のすべてが得られる、支配できる、治められる、という。
・本来、すべてのものは神の支配の中にあり、悪魔の所有ではない。
・悪魔を拝めば、すべてが手に入る、ということも嘘でしかない。
悪魔を拝むこと―神以外のものを神とすること。偶像礼拝でしかない。
主イエスは、この誘惑を、聖書の言葉で退けた。
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(申命記6:13、十戒の第1戒など)
偶像礼拝―偶像を拝む者は、偶像のようになる。()115:8 偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる。」(詩編115編8節)
→悪魔を拝むすなわち仕えることは、自らを悪魔のようにしてしまう。
3(神を試すこと)について
悪魔の誘い。「神の子ならば、ここから飛び降りたらどうだ」と。
悪魔もまた聖書の言葉を用いて誘惑する。
「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」(詩編91:12)
主イエスは、ここでも、聖書を用いて、誘惑を退けた。
「あなたの神である主を試してはならない」(申命記6:16)
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(ルカ
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ27:40)
「15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
神の子ならば 十字架から降りてみろ、自分を救うがよい、信じてやろう、という十字架上で主イエスに投げかけられるあざけりとも重ねられる。
神を試す―人間を主人にすること
これらの誘惑を、主イエスは、聖書の言葉によって退けている。
私たちにも、誘惑を退ける力をもつ神の言葉が与えられている。