2020年4月19日礼拝説教

旧約聖書   イザヤ書43章1節 (旧約p1130) 
福音書 ルカによる福音書5章1~11節(新約p109)
説  教 「主に呼ばれる」      柳谷知之牧師

 イースターを迎え、復活節の中にあります。一方、社会は、新型コロナウィルスの感染の広がりが収まることがありません。希望をもって日々を過ごしたいものです。平安を得て生きたいものです。また、この世界は神が創造され、神の御手のうちにあることを信じるところから、この人間の力の及ばないウィルスの影響もまた神からきている、と信じるのか、どうか、あるいはその意味を問われているところになります。

 さて、イースターの出来事の中で、女性の弟子たちは、神の使いの言葉を聞きます。4つの福音書をそれぞれ見ていきますと、復活の主イエスと出会う、ということは、ガリラヤがキーワードとなっています。そのガリラヤとはどういうところか、ということも含めて、考えざるを得ないところがあります。
〔「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」(マタイ28:7)、「行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:7)「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」(ルカ24:6) ヨハネによる福音書では、復活の主イエスの顕現がティベリアス湖畔、すなわちガリラヤ湖であったことが記されています(21章)。〕
 すなわち、ガリラヤとは、当時のユダや社会においては辺境の地であり、「ガリラヤから何の良い者が出るだろうか」と言われるぐらいでした。地理的にはサマリヤのさらに北に位置し、中心であったエルサレムからは遠く離れていたのでした。また、ガリラヤは交通の要所として、ローマ軍が駐屯し、一方、大規模な反乱も起こった地域で、反骨のガリラヤとも呼ばれていたのでした。
 現在なら、どのような場と言えるでしょうか? 世から見捨てられた場、人々のやるせない不満が高まった場、闇とも思える世界。私たちの外の世界だけでなく、私たちの内なる世界にもそのような場を見出すことでしょう。そこで復活の主イエスと出会える、というのです。

 直接的にコロナに関する問題に応えられるかは、わかりません。私たちの命の源は神にあり、神にすべて委ねればよいのだ、何も心配するところはない、と言い切りたい、と思うところもあります。東京のある教会は、「どのように対処しても病にかかることを防ぐことはできない。それよりも神の言葉を聞き、不安を取り除くことが大事だ、といって、礼拝を続けています。詩編91編のように「神はあなたを救い出してくださる…暗黒の中を行く疫病も 真昼に襲う病魔も…あなたを襲うことはない」と語ります。一方で、個々の状況やこのことで大きな試練を受けている人たちに対して同じように言えるのか、というところでためらうところがあり、まだ問いを問いのままにしつつ、御声が聞こえるところまで祈り続けなければならない、と感じているのです。そして、このような問いの中にあるということは、わたしたちが日々の生活の根拠を何に置くかが改めて問われます。教会が何によって成り立っているのか、が問われるのです。礼拝は不要不急ではありません。私たちの渇きをいやす命の泉を示すところであるだけでなく、私たちの献身のしるしです。それはみ言葉と祈りと賛美そしてそれらを含む主にある交わりを伴います。ですから、「交わり」という面で、安易にインターネット礼拝をすればよい、というようにはなりません。どうしても集まって礼拝が困難になる場合にも、互いに主にあって一つである、互いに日曜日には礼拝を献げる、というところで一つにある、という「交わり」が実現できれば、と考えるところです。また、交わりという点で、わたしたちはいろいろと誤解をすることがあります。主にあって交わりが与えられる、というのは、結論的に言えば、「悔い改め」が起こる、ということです。もちろん、自分自身がその交わりの中で、最終的には自己肯定されること、他者を尊ぶという関係に入れられることと思いますが、最初からその交わりがあるのではない、ということです。

 本日は、主イエスの弟子たちが招かれる場面を聞きました。主の弟子たちが主イエスを理解し、その十字架の道行きや復活まで信じて従っていたか、というとそうではありませんでした。この地上で目の前で生きた主イエスに出会いながらも、主イエスの弟子たちは、主のことを理解していなかったのです。また、主イエスが集められた弟子たちの中から、裏切る者が現れたのでした。しかし、ここに主イエスとの交わりの始まりがあります。教会とは何か、というならば、主によって集められた異質な他者との出会いと交わりという面があるのではないでしょうか。日本基督教団信仰告白においては、「恵みにより召されたる者の集い」と告白します。「恵みによって召される」とは、自分の意志によって、自分の思いが先立つところで集められるのではない、ということです。すなわち、自分にとっては思いがけないこと、苦しいこと、不安、恐れ、自己卑下や優越感といったこと、そのような思いを主イエスの弟子たちは抱きながら、十字架と復活を経験したのですが、そのように十字架と復活を経験する、ということにおいて、恵みが恵みとなり、主によって召される、集められる、ということが、分かってくるのです。すなわち、自分の思いが打ち砕かれなければならないのです。そうして、何一つ功のない者、自分の中には何の良いものがない者でありながら、こうして呼び集められたのは、主の恵みによるもの、憐れみによるものでしかない、ということが、私たちの心の奥底に響いてくるのです。主イエスの十字架の重さとそれに対する感謝が沸き起こってくるのです。そして、その主の恵みに触れたものは、「罪深い者です」と告白せざるを得ないのです。そして、そのうえで、主イエスの十字架による「罪の赦し」が宣言を聞くことができます。それは、自分の限界、罪深い人間の限界をこえて、未来にむけて、神の働きのために、自分自身を投じるための宣言ともなります。

 本日のルカによる福音書において、最初に呼ばれた弟子たち、特にペトロの様子から、主によって召される、ということが見えてきます。ルカは、他の福音書とは違って、様々な情景が思い浮かぶように描いています。主イエスがシモン(後のペトロ)の舟に乗せてもらって、人々に教え始め、さらに、ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ペトロたちは、「夜通しの漁」を終えて、何も取れずに引きあげたところでした。しかし、せっかくイエス様がおっしゃるのですから、と言って、沖に漕ぎ出し漁をしたところ、まったく思いがけない大漁となったのでした。ペトロはその前に、自分のしゅうとめをいやしてもらったところでしたので「お言葉ですから」と言ったのではないか、と私は解釈しています。その言葉の裏には「どうせ無理だと思うけど」という心が隠されていたのではないでしょうか。ですから、思いがけない大漁に驚き、主イエスの前に「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言わざるを得なかったのです。漁師としてのプライドが打ち砕かれました。自分自身の存在が主の前に打ち砕かれたのです。そして、主イエスに畏れを感じたのです。他の漁師、ヤコブとヨセフも同様だったとあります。

 そのペトロはじめ漁師たちに主イエスは言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。

 私たちは、主の前に出るごとに、神中心でいることができない自分自身の姿を見ざるを得ないのです。

 しかし、その私たちを、「恐れることはない」と受け入れてくださいます。

 そして、「人間の漁師」「人間をとる漁師」になる、と言われるのです。

 これは、ペトロ達特別の使徒たちに対する招きというだけでなく、わたしたちキリスト者にも語られていることです。「人間の漁師」とはなにか。「人間を取る漁師」と解釈されますが、「漁師」は「生け捕りにする者」です。すべての人が神に属する者として生きて捕らえられるために、あなたの人生は用いられるのだ、と主イエスが宣言されるのです。

 自分自身、神のために最善と思って判断したことにも、振り返ると自己中心的な思いが隠れていることがあるのではないでしょうか。様々な挫折や弱さを抱えつつ、交わりにも破れがあります。しかし、その都度、神との祈りの中で悔い改めつつ、主イエスの宣言のように、どのような場、時においても、「人間を取る漁師となる」ことが約束されているのです。そこに教会があるのです。

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