2020年8月23日礼拝説教 聖霊降臨節第13主日

聖書
 旧約聖書 イザヤ書6章9,10節 (旧約p1070)
 福音書 ルカによる福音書8章4~10節 (新約p118)

説 教 「神の裁きと救い」

種まく人のたとえ

主イエスは、たとえ話を何度もされています。その中でも、今日の種まきのたとえは、幼稚園や子どもの礼拝でも子どもたちにもお話しする機会が多いものです。神の言葉が畑である人間の心に蒔かれて、実を結んでく様子あるいは実を結ぶことができない様子が、イメージしやすいものです。

農夫が種をまきます。

ミレーの絵画「種をまく人」のように風に乗せて種を蒔きます。

ある種は、道端に落ちてしまいます。人に踏みつけられて、結局鳥が食べてしまいました。別の種は、石地に落ちました。芽は出ましたが、水気がなく根を伸ばすことができず枯れてしまいました。他の種は茨の中に落ちてしまいました。その種は、茨にさえぎられて大きくなることはできませんでした。他の種は、良い土地に落ちました。そして成長し、百倍の実を結んだのでした。

たとえが意味するところ
 このたとえの意味は、今日の聖書箇所のあとのところ(ルカ8:11~15)にあります。道端に落ちた種は、み言葉を聞くが、後から悪魔が来てそのみ言葉を奪ってしまう人たちだ、と。石地のものは、み言葉を喜んで受け入れるが、根がなく、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのこと、茨の中に落ちたのは、み言葉を聞くが、思い煩いや快楽にふさがれて、実を結ぶまでに至らない人たちだ、というのです。そして、良い土地に落ちたのは、立派な良い心でみ言葉を聞き、忍耐して実を結んだ人たちのことだ、というわけです。概ねその筋で教会は解釈をしてきました。このたとえ話と意味については、マルコ、マタイ、ルカのすべてに書かれていますが、意味について微妙に違うところがあります。特に最後の良い地に落ちたものについてですが、マルコでは、「み言葉を聞いて受け入れる人たち」とあり、マタイでは「み言葉を聞いて悟る者」そしてルカでは「立派な良い心でみ言葉を聞き、良く守り、忍耐して実を結ぶ人たち」とあるのです。ルカによる福音書においては、より倫理的にも立派であることや迫害に耐え忍ぶという方向が示されています。そして、そのために聞き方によっては、次のように思ってしまうところがあります。

「神の言葉を素直に聞く立派な良い地になりましょう」と。

種を蒔くことについて

しかし、もともとのたとえを見ますと、ひとりひとりが良い地となって実を結ぶようになることを勧めているたとえではなく、神の国の広がりを伝えるたとえです。

神の国は、最初は取るに足りないように見える小さな種のようです。その種が、道端や石地、茨が茂る土地に落ちて、無駄になっているように見えることもあります。しかし、多くの種は良い地に落ちて実を結ぶのです。その意味では、コヘレトの次の言葉も想い起こします。

「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」(コヘレト11:6)

わたしたちは、神のことを知ってほしい、主イエスのことを知ってほしい、と願いますが、なかなか人に伝えられないところがあります。宗教を信じている、ということで変な目で見られるのではないか、とか、言ったとしても拒否されてしまうことが多い、という点で、自分では喜んで聞いていても、それを伝えるということに、二の足を踏む、ということがあります。

しかし、このたとえは、最後に多くのものが実を結ぶ、という希望を語っているのです。

あの人は石地だ、あの人は道端だ、あの人はすぐに誘惑に負けるから茨の土地だ、と人にレッテルを貼るために、主はこのたとえを話されたのではありません。また、自分自身について、わたしは根がないからダメだ、とか、誘惑にまけて決して良い地ではない、と決めつけるためでもありません。

人間は、すぐに結果や成果を求めます。自分が生きている間とかに実を結べたら、と願います。しかし、神の視点から見ると、それは人間の勝手な考えです。

また、ある人は、当時の種まきにおいては、種を蒔いた後、土地を起こし耕すのだ、と。ですから、良い土地に蒔かれた種というのは、最初から良い土地かどうかはわからない。み言葉を受け入れて、そして心を耕せばよいのだ、と解します。

 これらのことから、わたしたちは、これは悪い土地、これは良い土地と決めつけることはできません。み言葉が蒔かれてから、何十年と経ってから教会生活をされる方もいます。根が枯れてしまったのか、誘惑に負けてしまったのか、と人間の目に映ったとしても、それが覆されることは多々あるのです。

神のご計画の中で

さらに、この今日の11節を見ると、道端や石地、茨の土地に落ちた種が実らないのも神のご計画の中にある、ということを読むことができます。
弟子たちが、主イエスに「このたとえはどんな意味か」と尋ねたのです。
すると主は、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」と、答えました。
たとえは、他の人たちにわかりやすく伝えるためにあるのではなく、かえって理解できないようになるためなのだ、というのです。
『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』というのは、今日のイザヤ書と関連しています。

イザヤは、神から預言者としての召命を受けました。
イザヤは神殿で神を見て、罪深い自分は滅びなければならない、と感じました。しかし、そこで神は、イザヤの唇を火で清めました。そして、神の声を聴きました。「わたしは誰を遣わすべきか」と。
イザヤは「わたしはここにおります。わたしを遣わしてください」とその声に応えたのでした。しかし、神は、民が悔い改めないように、人々が理解しないように、と続けるのです。そして、神が民の心を頑なにされるのです。

一体預言者とは何でしょうか。無駄だと分かっていても、なお神の言葉を告げ知らせるものとなる者です。成果を考えて、遣わされる者ではない、ということです。
預言者は、結果がどうか、ということよりも、神の召しに応えて、語らざるを得ない者なのです。そして、神の国は、その預言者の働きによるのではなく、神の働きの中で実現へと向かうのです。すなわち、神の国の実現に対して、人間の努力が必要である、ということではありません。しかし、遣わされる人間は、神の恵みを知り、その中での選びを信じるからこそ、神のために働こうと思わせられるのです。そこに神の国の秘密があります。

種を蒔くのは神
 今日のルカによる福音書のたとえをふりかえると、種を蒔く農夫は、神を表しています。ですから、神が種を蒔いてくださっているのです。
そして、わたしたちもその神の働き、神の恵みに応えて、種を携える者とさせられるのですが、本当は、私たちが働く以前に、神がすでに種を蒔いてくださっていた、ということを経験するのです。そうでなければ、わたしたちは神を誇るよりも、自分自身を誇ってしまうことになるでしょう。あるいは、誰かほかの人を誇ることになってしまいかねません。
次のようなことを考えます。
パウロは、次のように述べています。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ローマ2:14,15)
また、使徒言行録に描かれているパウロの宣教において、パウロがアレオパゴスというところに行ったときに、こんなことがありました。
「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(使徒17:22-24)
ある人が主イエスによって示された神を知り、それに従おうとするとき、直接的には誰かが伝えたからこそ知ることになります。しかし、それ以前に、その神を受け入れる土壌や宗教性というものが存在するのです。人の良心の中に、人間や被造物をこえる大いなるものを求めたり、神を求める心が与えられていたり、人間が自分中心では生きてはいけない存在であることを感じ取っていたりすることがあります。
直接的には、松本教会やある特定の教会で洗礼を受けた方も、幼い時、まだ教会と出会う以前に、キリスト教の幼稚園や学校などとの出会いをしている場合もあります。

先日、Aさんをお訪ねしました。
Aさんは、長野県町教会で洗礼を受けましたが、戦前は松本教会の礼拝に出席していました。戦争中になると、両親から教会に行ってはいけない、と言われた、とのこと。私の祖父(哲夫牧師)や叔母や叔父たちの話もしてくれました。その最後に、わたしが教会に行くようになったのは「木下尚江おじさんがきっかけだった」と言われました。
おそらくそのようなことが、各人にあるのではないでしょうか。
そのようにして、神はわたしたちに先立って種を蒔き、土壌を耕していてくださるのです。さらに、わたしたち周囲の人たちに対しても、神がすでに働いているのだ、と信じることができるでしょう。そうであれば、他者に対する敬意を持つことができるに違いありません。

神の裁きと救い
 一方、Aさんは、「5人兄弟のうち、上の姉(照子姉)と二人だけしか教会につながらなかったね」と言われていました。
私たちの願いとは裏腹に、キリストを信じない人たちがいます。時には、頑なに思えるほど、拒否する人たちもいます。しかし、先ほど申し上げたように、それが神に選ばれているかどうかの決定的なところとはなりません。わたしたちが感じたり考えたりする以上のことが、神のもとでは行われていると信じるからです。
一方、「裁き」についてヨハネによる福音書で主イエスは、言われます。
「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」と。
神を信じないから、死後や後の世で、裁きにあうのではありません。
主イエスを信じないことで、その人は、自分の人生の大きな価値や、存在の意味に気づかないという点で裁きの中にあるのです。命や存在が全くの恵みである、ということに気づかないことが、すなわち裁きとなっているのです。結果として、お金や名誉といった他の価値に自分の人生を委ねていたり、赦しを知らないという点で裁きにあっているのです。
そして、その裁きは今の時点では、決定的でありません。
 神の裁きの中にあった、とはっきり自覚できる人は、救いを求め、その方向を確かにすることができるからです。
神の裁きは、そのように救いに至る道の中にあります。
なぜ、神は民を頑なにされるのか、弟子たち以外に神の国の秘密を隠すようにされるのか、そのことは正直に言えば、私にもよくわかりません。
しかし、人があるとき、自分のかたくなさや罪深さに気づかされるのならば、その時が救いに向かう始まりとなります。
そうしたときに、星野富弘さんの詩を思い起こします。

わたしは傷を持っている。/でもその傷のところから、/あなたのやさしさがしみてくる。

傷は、悲しみ、痛みなどもありますが、「欠け」や「罪」と考えることもできます。
人が自分自身の欠けや罪に気づかされるとき、それは「裁き」と感じるときです。しかし、その人間を、神が主イエス・キリストを通して、ご自分のものとされているのです。その時に、その「裁き」は、「救い」を示す大きなしるしとなっていくのです。

実は、本日のたとえ話では、他の福音書にはない特徴があります。石地に落ちた種について「芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。」(6節) この水気は、涙である、という解釈があります。

岩崎航さんという詩人がいます。3歳で筋ジストロフィーを発症し、17歳の時、将来に絶望して自殺を考えたという方です。25歳から5行詩を作り、何冊かの詩集を出しています。その方が次の詩を作っています。その方が次のように詠います。

 乾かない / 心であること / 涙もまた / こころの / 大地の潤いとなる

その言葉に触れながら、神の言葉は、人の絶望の中で、根を生やし、芽を出して、希望の実を結ぶことになるのだ、と思いめぐらすのです。

 

★★★★★★★★★★★★★★★ 余 談 ★★★★★★★★★★★★★★★

種の蒔き方について

旧約の時代から、種の蒔き方は、その作物の種によって異なっていました。

「畑の面を平らにしたなら、いのんど(ディル)とクミンの種は、広く蒔き散らし、小麦は畝に、大麦は印をしたところに、裸麦は畑の端にと、種を蒔くではないか。」(イザヤ28:25)

広くまき散らすような種まきのものがあります。

一方、畝を作ったり、しるしをつけたところに蒔くようにする作物もあります。

少なくとも、小麦や大麦は広くまき散らすようには蒔かないのです。ですから、小麦や大麦でしたら、道端や石地に蒔かれることはなかったでしょう。

では、主イエスがたとえに用いた種は何の種でだと考えられるのでしょうか。

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