2020年9月13日 礼拝説教

聖書

 旧約聖書 出エジプト記12章37,38節 (旧約p113)

 福音書 ルカによる福音書8章19~21節 (新約p119)

説 教 「神の家族」 (別紙)  祈祷  柳谷知之牧師

主イエスの家族

主イエスのもとに、主の母マリアと主イエスの兄弟たちが来ました。群衆たちが大勢主イエスを囲んでいたので、近づくことができませんでした。主イエスの周りは、いつも大勢の人々でいっぱいでした。ですから、主の母親と兄弟たちは、人をやって主イエスに会いたい、ということを伝えてもらうことにしたのです。ところが、主イエスは、その知らせを聞いて「すぐに会いに行く」というのでも「もう少しお待ちください」と言われたのではなく、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われたのでした。

肉親である人たちが訪ねてきたのに、それに対してちょっとつれないのではないか、と思ってしまいます。どうして、彼らが主イエスに会いたかったのか、マルコによる福音書の3章21節には、次のようにあります。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」マルコでは、この続きに「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」(マルコ3:31)とあるのです。身内の者が主イエスの母と兄弟たちと考えられます。彼らは、主イエスのことが分からなくなっていました。主イエスが30才近くになって、洗礼者ヨハネのところに行ったかと思うと、次は自ら弟子をとり、何も仕事をしないで町々をめぐっていることを理解できません。突飛な行動として映りました。ですから、取り押さえようとしたのです。もしそうでないとしても、「気が変になっている」と聞いて、心配になって会いに来た、と考えてもいいでしょう。

主イエスの母や兄弟が主イエスのことを心配するのは、自分の身内であるからです。身内のものについて「気が変になっている」などと噂がたてば、誰でも心配になります。その真意を尋ねて、もし間違ったことをしていれば正そうとするはずです。しかし、それは主イエスのことを第一に考えてのことというよりも、自分たちの立場を守ろうとすることです。身内に「気が変になった」と思われている人がいる、というのは、家族にとって汚点となる可能性があります。それをもとに、自分たちも後ろ指をさされる心配があります。もっとも、このような考え方は日本人的と思われるかもしれません。しかし、人間の普遍的な行動として、身内に立派な人がいれば誇らしい気持ちになったり、反対に、悪評の人がいれば、恥ずかしい気持ちやみじめな気持ちになることはあるでしょう。

だからこそ、主イエスは自分の母や兄弟が「会いたい」と言ってきても、それを否定するかのようにして言われるのです。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と。

神の言葉を聞いて行う者、神の御心に沿う者が、主イエスの母であり、兄弟であるのです。それは、血のつながりに縛られるものではありません。それは、第一に神を中心にする家族です。

主イエスは、血のつながりがあるかどうかで、人との関係を考えられていません。誰々の母だから、息子や娘だから、ということで人を見ることはありません。それは、ご自分のことでも同様です。ご自分の母だからとか、ご自分の兄弟だからというので、特別扱いはされないのです。それよりも、神の御言葉を聞いて行うかどうか、に重きを置かれているのです。

 

神の言葉を聞いて行う

では、神の言葉を聞いて行う、とはどのようなことでしょうか。通常は、聖書に書かれた律法や戒めを行う、と考えるでしょう。主イエスが語られた戒めもあります。

しかし、その戒めや律法の中で何が大事か、というならば、主は、次のように言われます。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」

すなわち、全身全霊であなたの神を愛しなさい、ということ。

そして、もう一つ、

「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。これは、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」ということです。

神を愛すること、自分を愛し他者を愛すること、そこに聖書の戒めのすべてがかかっているのです。

聖書が語る様々な戒めがありますが、この二つだけなら守りやすい、と考えられるでしょうか。

実は、わたしたちは自分自身を見つめれば、この二つの戒めさえも守ることが難しいことに気づかされるのではないでしょうか。

神を愛する、といっても、いつも神のことを考えることができません。神の約束を信じるか、と問われれば、疑うこともしばしばあります。神などいない、と思ってしまうこともあります。

また、隣人を愛する、という場合にも、そのもととなっている自分自身を愛することができません。自分の嫌な面や人に見せたくない面を愛することができるか、というとそのような面意は目をつむりたくなります。あるがままの自分を受け入れることができないのが人間の性質としてあるのではないでしょうか。

そのように、戒めを守る、ことでは不完全なわたしたちです。

しかし、主は、そのようなわたしたちを十字架によって、神の子としてくださったのです。十字架は、世の理不尽さを表します。そして、神の子がその理不尽さの中で苦しまれたのです。神が世の苦しみとかけ離れたところにいらっしゃるのではなく、共に苦しまれるのです。さらに、十字架に対して、わたしたちは被害者というだけでなく、加害者でもあります。十字架の前で自分の罪に向き合わざるを得ないのです。そのわたしたちを、神は恵みによって赦してくださり、新しい生き方、新しい命を与えてくださっているのです。

ですから、神の言葉とは、断罪の言葉ではなく、恵みの言葉です。それは、行いや思いによらないで、わたしたちが義とされていることを表します。恵みによる世界は、ギブアンドテイクや、因果応報、自己責任という枠組みを超えた世界を語っています。そのようにして、神はわたしたちへの愛を示してくださるのです。

その恵みの言葉、愛の言葉にゆだねていくこと、それがみ言葉を行う、ことが表す内実です。

そして、神の愛の言葉にゆだねることは、それで何もしない、ということでは終わりません。主イエスの愛を知るからこそ、その愛に応えたいと思うからです。

その応答は、一人ひとり違います。律法主義のようにこうしなければならない、というものではありません。行動として現れる場合、祈りとして現れる場合、それぞれであります。ただ、その人の中では必然的な出来事であるはずです。私たちの家族に様々な人がいるように、あらゆる立場が許される関係があるのです。

家族とは?

さて、ここで、改めて家族ということについて、考えさせられます。

ちょっと前の信濃毎日新聞に、湯浅誠さんというホームレス支援、生活困窮者支援をしている人が、自身が関わるいわゆる「子ども食堂」についてインタビューに答えていました。湯浅誠さんは今、子ども食堂のネットワーク化をすすめるNPO法人むすびえの理事長です。このコロナ禍において、子ども食堂も以前のようには開けなくなっている、とのこと。密な状態で一緒に食事をすることを避けなければならなくなったからです。しかし、子ども食堂のスタッフの人たちは、「だったらしょうがないね」ではなく、集う一人ひとりの子どもたちや家庭のことを考えて、あの子たちはどうなるのだろう、と心配していた、とのことです。そして、そのような姿を、湯浅さんは「まるで家族のようだ」と評していました。家族は、利害関係ではなく互いに心配し合うものだから、というのです。そして、そのような人間関係が「子ども食堂」を通してできていることが、孤立化する人が減ったり、地域で様々な人を把握する方向に社会を向けさせることにつながるのです。

わたしたちは、主イエスを信じることによって、神の子とされています。神を「父」とする家族です。

ただし、「父なる神」というイメージは、人間の「父」ではありません。神は、地上の父のイメージではなく、命を生み出し、養い育てる方です。愛と慈しみの源であり、放蕩息子を遠くから発見し駆け寄られる方です。「神」は、地上の父の投影ではなく、権威あるものとして、地上のすべてを治める方としての「父」です。

そして、神を「父」とする家族は、その「父」のもとで、すべてが平等とされます。大人であろうと、子どもであろうと、社会的有力者であろうと、そうでないものであろうと、すべての者が等しいのです。

また、神の子とされる、ということ、誰かが神の家族であるということは、その人が独りぼっちにされてはいないことを示しています。

神の愛を知り、その愛を生きようとするものは、主イエスの兄弟姉妹であり、主が共におられるのです。

血縁や地縁などによるのではなく、み言葉によって結び付けられるものが神の家族です。そして、神はすべての人をそのような関係に招き入れられているのです。

ただし、家族の幻想ということにも注意が必要でしょう。家族ならば、こうするべき、助け合うべき、ということではありません。むしろ、家族ということで言いあらわされているのは、一緒に生きていくということであり、お互いに居場所がある、または自分が帰る場所があるということです。たとえ、一緒に生きる事ができなくなったとしても、また離れ離れになったとしても、そのような家族である事実は残っていくのです。

兄弟である最も小さい者

一方、主の兄弟ということで、マタイの25章31節以下のたとえ話を思い起こしています。

ここで、王なるキリストは祝福された人たちに対して「あなたがたは、わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われました。

言われた人たちは、「いつわたしが、あなたが飢えておられるのを見て食べ物をさしあげ、のどが渇いているのを見て、飲み物をさしあげたでしょうか? いつ旅しておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり 牢におられたのを見て、お訪ねしたでしょうか?」と答えたのです。

そのとき、キリストは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われるのです。

キリストの兄弟姉妹なるものは、最も小さい者の一人である、ということが示されています。

この世では、見捨てられたような人であっても、そのような人とキリストは共にいてくださるのです。そして、わたしたちも自分自身が、飢え渇き、病や牢において孤独の中にあるときに、キリストは共にいてくださる方です。

先に述べた神の御言葉を行う者としての家族とは、キリストが兄弟と呼ぶこれらの最も小さい者たちと共に生きる事を課題とするのではないでしょうか。

キリストの愛、神の愛に生かされている者だからこそ、そうせざるを得ないのです。

なぜ、神はわたしたちに命を与え、主イエス・キリストの愛を伝えてくださったのだろう、と考えるならば、結局は、すべての人が、神の家族として共に生きていくためなのです。

さらに主イエスが、次のように言われていることを思い起こします。「わたしの父の家には住むところがたくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうしてわたしがいる所に、あなたがたもいることになる」と(ヨハネ14:3,4)。主イエスが、一人一人の場所を用意してくださる、それが神の家族であり、わたしたちの信じるところです。

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