2020年9月20日 礼拝説教

聖書

旧約聖書 ゼカリヤ書14章7節      (旧約1494頁)
新約聖書 ルカによる福音書8章22~25節 (新約119頁)

説教 「向こう岸に向かう舟」

湖の向こう岸に
 ある日、主イエスは弟子たちに言われました。「向こう岸に渡ろう」と。「向こう岸」には何があるのでしょうか。今日の続き(ルカ8:26以下)を読むと分かりますが、「向こう岸」は、ゲラサ人の地方であることが分かります(マタイではガダラ人の土地)。ゲラサ人の地方とは、ゲルゲサ地方と呼ばれていました。ゲルゲサ地方は、ガリラヤ湖南東に広がる広大な土地ですが、そこにはゲラサやガダラといったギリシアの植民都市がありました。そして、豚を飼っている(食用にしていた)地域でした(ルカ8:32)。ユダヤ人は、聖書に基づいて、豚を汚れた動物と考えていましたので、ゲラサ人たちは、ユダヤ人たちから見ると、汚れた人たちということになります。

しかし、そこに向かわれるのが主イエスです。すなわち、「向こう岸」とは、主イエスの宣教(伝道)の方向を示しています。主イエスの伝道の方向は、ユダヤ人だけに限りませんでした。フェニキア人、ギリシア人、サマリア人、ローマ人などユダヤ人が交わりをしなかった人々にも神の国の福音を告げ知らせていました。ここでも、そのような主イエスの姿を見ることができます。

すなわち、主は人を分け隔てしません。こちら側、向こう側と一線を引くことをしません。すなわち、主イエスの働きは、ユダヤ人か異邦人かではなく、共に神の民であることを告げ知らせるのです(もともとイスラエルの父祖であるアブラハムは、すべての国民の祝福の源として選ばれています⦅創世記12:3⦆)。そして、主イエスは、向こう側から来るのを待つだけではありません。こちら側から、向こう岸へと向かわれるのです。すなわち、いわゆる「こちら」と「むこう」の架け橋となられるのです。そのことによって、敵意という隔ての壁を打ち壊されます(エフェソ2:14)。和解の福音を告げ知らせているのです。

ここに、分断を超えていく働きがあります。

今もわたしたちの中には、分断があります。歴史を見ると、為政者は時には分断を利用して人々を治めようとしてきました。強い者が弱い者をたたくだけでなく、弱い者がさらに弱い者をたたく構造があります。植民地の支配構造もそうですが、身近なところ思い起こすことがあります。かつて政治の分野で構造改革が叫ばれました。その時に、やり玉に挙げられたのが、公務員でした。他の労働者よりも楽している、収入が安定している、などと言われ、公務員の勤務が国民のためになっていない、官僚組織を変えることが大切だ、ということがいろいろなところで言われました。確かに、役所のサービスはそのことで向上しましたが、本来、政治的な怒りが為政者に向かうところを、公務員に向けられました。そして、同じ労働者としての連帯ではなく、分断が進められてきたのです。また、その結果、市役所などでも非正規労働者が格段に増えてしまいました。分断は、自分たちの地位向上に向かわず、待遇がよさそうな人を引きずり降ろす方向を持ってしまいました。また、現在は、コロナにかかっているか、かかっていないか、対策をしているか、していないか、というところで、分断があるのではないでしょうか。人と人が分断し、互いに敵対する立場として対立してしまいます。そして、為政者はそれを利用して、自分たちへの批判をかわすのです。

分断の要因には様々なことが考えられます。民族や国や文化、宗教の違いがあり、経済的格差や、様々な立場の違いがあります。現代では、性別や性的指向の違いがあります。

そうした要因が、分断に利用されてしまうのです。そのような構造に対して、主は「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられます。

どのような人々であっても、世のすべてを造られた神を中心とすることを呼びかけられるのです。

舟の中で

さて、舟をこぎ出してみると、主イエスは、眠りにつかれました。舟といっても、漁師たちが漁に用いるような舟です。ガリラヤ湖は、湖の周りに山がありました。また、ガリラヤ湖は海面より低い位置です。日没に伴って気温が下がると、冷えて重くなった空気が一気にガリラヤ湖に下って行き、突風が吹くことがありました。ですから、漁師たちは夕方近くには舟は出さなかったようですが、出したとしても警戒し、緊張感を持っていました。ところが、主イエスは舟で寝ていたのでした。これは、通常は考えられないことです。そのような舟の中で寝るのは、酔っ払いか愚か者のすることだと思われていました。

一方、主イエスがこのような時間にでもほっと一息ついて休まれていた、と考えることもできます。ひと時も休む間がなかった主イエスだったのだ、危険が迫る舟の中でも眠らざるを得なかったのだ、と思いめぐらします。

また、主イエスは、たとえ突風が吹く恐れがある中でも、神を信頼し、いつでも平安を得ていたのだ、ということも言えるでしょう。

突風が吹く

そして、恐れていたとおりに突風が吹きました。そして、湖も荒れて、舟の中に水が入ってきました。弟子たちはみなずぶぬれになったのでした。慌てた彼らは、主イエスを起こしました。

「先生、先生、おぼれそうです」と。これは、もともとは「先生、先生、滅びてしまいます」という言葉です。これほどに、命の危険が迫り、弟子たちの慌てていました。弟子たちの慌てふためく様子をよそに、マルコによる福音書のほうでみますと、主イエスは、舟の艫の方、すなわち後ろのほうで寝ていました。そして、弟子たちの声で起き上がり、風と波をお叱りになったのです。すると、風も荒波も静まって凪になったのでした。

ここで、主イエスは言われます。

「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と。

マルコによる福音書(4章40節)では、もっと厳しい口調です。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。弟子たちが、突風や荒波を恐れたことを非難しているかのようです。

この後の弟子たちの反応を見れば、主イエスが風と荒波を治めたことに対して大変大きな驚きがありましたから、風と荒波を叱って鎮められるとは予想もしていなかったことでしょう。慌てふためく自分たちに対して、落ち着いて寝ている主イエスを起こして、自分たちと同じように心配してほしい、できれば、神に祈ってほしい、という気持ちだったと考えられます。

しかし、結果的には、「わたしたちはおぼれそうです」と主イエスを起こし、主によって助けられたのです。

「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と主イエスが問われるのは、弟子たちを非難した、というよりも、弟子たちが何にたよるべきか、あなたは何に頼っているのか、そのことを問われたと受け取ることができます。

すなわち、主イエスが「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問われる時、主は、わたしたち人間の信仰が不安定なものであり、不安と恐れの気持ちといつも一緒になっていることをご存じなのです。人間の信じるという気持ちの頼りにならないことをご存じです。たとえば、ペトロが主イエスの十字架の前に、「わたしはご一緒になら牢に入って死んでもよいと覚悟している」(ルカ22:33)と言いました。結果は、三回、主イエスを知らないと言ってしまいました。人の覚悟も、信仰も、神からみるならば当てにならないものだ、ということ、その部分の自覚があるか、が問われます。私たちの信仰も結局主イエスのとりなしにおいて成り立つのです。不信仰で、ふさわしくないものでありながら、主イエスはわたしたちに目をとめ、救いの道を示されるのです。

主イエスに対して、不信仰なものでしかないからこそ、様々に揺れ動く中で、神の言葉を求めるしかありません。ある人は、だから教会は一週間の半ばに祈祷会を持っているのだ、といい、一週間の半ばでもまだ不十分だ、だからこそ、日々み言葉に親しみ、神の声を聴かなければならない、と言う声もあります。そして、犯した過ちを悔いたり、そのために居場所を失うのではなく、悔い改める道として、信仰の道は備えられているのです。

今も、主は「あなたの信仰はどこにあるのか」と私たちに問われるのです。

主イエスの権威

さて、弟子たちは、自然をも従わす主イエスの権威に驚きました。

「いったいこの方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」

弟子たちの問「この方はどなたなのだろう」という答えは、やがて、ペトロの信仰告白(ルカ9:20)につながっていきます。

「神からのメシアです」と。

自然をも従える方、それが私たちの救い主です。

湖で嵐を静める主イエスが、今も私たちの世を支配されているのです。

現代の教会の文脈の中で

さて、主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われたように、教会もまた「向こう岸」へと向かう者の群れです。その向こう岸は、和解の架け橋をかけるものとして、他者と共に生きようとする者の群れです。「こちら側の世界」から神の約束に向かう群れです。

神の約束に向かうものとして、他者と共に生きようとするがゆえに、突然の嵐に見舞われることもあります。こぎ出さないでおけばよかった、と思うこともあるでしょう。

しかし、教会が教会であろうとすればするほど、突風が吹き荒れることがあるのです。決して穏やかな凪の日ばかりではありません。災害や疫病など思いがけない出来事の中で、これまでの日常や礼拝生活も当たり前のことではない、と気づかされます。

「主イエス世、どこにいらっしゃるのですか」と叫びたくなることがしばしばあります。

一見すると、主イエス(神)は、眠っているように思えたり、神の働きはないように思えることがあります。

しかし、すべてを従える神が共にいてくださるのです。

嵐の中の舟は、教会の姿です。今日の奇跡の出来事においては、主イエスは舟の艫のほうにいます。すなわち、その教会の後ろのほうに、主イエスがいてくださいます。最後の砦として、主イエスの存在があるのです。「あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神」(イザヤ52:12)です。

わたしたちは、その主イエスに、「信仰のないわたしを助けてください、信仰のない教会を助けてください」と助け求めることができます。

そして、主は御言葉をもって、わたしたちの心の中に沸き起こった嵐と荒波を静めてくださるのです。

旧約の時代、ゼカリヤという預言者も、神殿を完成させつつも思い悩まされることが多々ありました。その中で、神の言葉「夕べになっても光がある」を神の民と共に聞いたのです。暗さが増す世界にあっても、神の光がある、ということがあります。人生の夕べを迎えるときにも、光がある、と読むこともできます。また、さらに、暗さが増すからこそ、老いを迎えるからこそ、見えてくる光がある、ということでもあるでしょう。

闇の中で輝く光こそ、主が示す光です。

なによりも、主イエスの十字架こそ、わたしたちを導く光です。

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