聖書
旧約聖書 エゼキエル37章13節 (旧約p1357)
福音書 ルカによる福音書8章26~39節(新約p119)
説教 「墓場から自分の家へ」 柳谷知之牧師
悪霊に取りつかれた男との出会い
主イエスと弟子たちは、舟にのりガリラヤ湖を渡り、ゲラサ人の地方につきました。ゲラサというのは、ギリシアの植民都市の名前であり、この地方はギリシア人やローマ人が住む土地でした。ですから、後に述べられるように、ユダヤ人たちが汚れた動物として触れることもしなかった豚を飼っている場所でした。
主イエスが、陸に上がられるとすぐに悪霊に取りつかれた男がやってきました。
その人は、悪霊に取りつかれているため、長い間、裸でいて、家にも住まず、墓場を住まいとしていました。
すると主イエスは、悪霊に対して、この人の体から出ていくように、と命じました。
悪霊に取りつかれた男は、わめきながらひれ伏して大声でいいました。
「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と。
悪霊に取りつかれた男は、人間として扱われず、鎖でつながれ、足枷をはめられて、監視されていました。しかし、それを壊して、悪霊によって荒れ野に追いやられていたのです。
「かまわないでくれ」という悪霊の叫びは、この人と一体になっていますが、そこに、人の複雑な思いを見ることができます。
わたしたちも、一人にされたくはない、と思うものです。しかし、独りぼっちであると感じるときこそ、他の人と会うと、ますます孤独を感じてしまうことがあります。人と関わりを持てば、余計傷つくということがあるからです。
「かまわないでくれ」という叫びは、そのような者の複雑な心境を表しているのです。ですから、主イエスはひるむことなく、この悪霊に取りつかれた男に関わりを持ちます。
悪霊の正体
主イエスは、悪霊に尋ねました。名は何というのか、と。名を知る、というのは、そこに関係ができます。そして、その名を知る、というのは、その人を知るということです。主イエスは、男にとりついた悪霊の正体を突き止めようとされたのです。
そして、主イエスは、悪霊からその名が「レギオン」という名であることを聞き出しました。主イエスは、悪霊の名前を聞き出したことにより、悪霊の力をつかんだのです。すわなち、悪霊を支配したのです。ちなみに、「レギオン」とは、当時のローマ軍の軍隊の一個師団を表す言葉でもありました。ローマの市民権を持つ人たちで構成された軍隊で、属州を治めるために派遣され、一師団は5000人からなっていました。たくさんの霊がこの男に入っていたからである(30節)と、解説がありますが、軍隊の一個師団ぐらい多くの霊に取りつかれていた、ということになります。
レギオンが軍隊の師団を表す言葉であることから、次のようなことも考えられます。この男は、もしかすると何度もローマ軍の一人として働いた経験を持っていたのかもしれません。そして、何人も殺したり、逆に殺されそうになった経験をしてきたことでしょう。現代は、戦場にいった兵士たちの中には、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になる人がいることが分かっています。ベトナム戦争の帰還兵やイラク帰還兵の中にもいますし、日本軍として戦った人の中にもそうした人がいると考えられています。自分が命を脅かされた経験をした悪夢にうなされて、家族に暴力をふるう、ということや、自分が殺す場面を何度も繰り返し思い起こさざるをえなかったりして、泣いたり叫んだりしてしまう人がいるのです。もしかすると、悪霊に取りつかれた男性にも、そのような過去があったのかもしれません。
そして、悪霊ということをつきつめて考えていくと次のように考えられます。
悪霊は、人が生きることを奪う力である、と。すなわち、神が与えられた命を脅かす力です。神から人間を引き離す力が悪霊です。それは、何も精神的な病や個人的病に限りません。
世の中全体、社会全体がその悪霊に取りつかれていることがあります。
その悪霊を主イエスは追い出される方です。
悪霊の追い出し方に何をみるのか
ただし、この悪霊の追い出し方はすさまじいものがあります。
悪霊は、主イエスに、底なしの淵に追いやらないように、と願うのですが、ゲラサ地方では食用に豚を飼っていました。そこで、主イエスは、豚の群れに入ることを許されたのでした。
底なしの淵というのは、滅びるということですが、豚の群れに入れば悪霊は滅びないということのようです。結局は、その豚はすべて崖から下って湖になだれ込んで死んでしまったのですから、その時悪霊はどうなってしまったのでしょう。滅びることなく、また別な住みかを捜しているかもしれません。そして、豚の数は、マルコによる福音書によれば二千頭でしたが、それほどの数の豚が湖になだれこんだという普通ではないことが起こったのです。
この様子に、豚を飼う人たちは逃げ出して、町の人たちにこのことを伝えました。そして、町の人々もあわててやってくるのですが、すると、悪霊に取りつかれた男の人が、服を着て、正気になって、主イエスの足元に座っていたのです。正気になる、というのは、まっすぐに物を見ることができるようになる、ということです。これまでは、服を着せても脱いでしまい、大声をあげて、暴れ出したりすることがあったので、人々は鎖につなごうとしたのです。それが、何もしなくても、そこに静かに座っていたのですから、皆驚いたことでしょう。しかし、豚飼いたちが自分たちの仕事を失ってしまいました。豚が群れをなして、湖になだれ込んで死んでしまったからです。その恐ろしい様子と、主イエスが悪霊を追い出したこととがつながりました。
ですから、人々は、主イエスにこの町から出ていってほしい、と願ったのです。
人が正気に戻る、ということは、善いことばかりではなく、周りの人に恐れを抱かせることがあるのです。
梨木香歩『ほんとうのリーダーのみつけかた』から
先日、梨木香歩という作家の7月に出た講演録とエッセー集『ほんとうのリーダーのみつけかた』の紹介記事を興味深く見ました。本書では「あなたのなかで、自分を見てその目がある」と指摘し、「その自分のなかの目」こそが「本当のリーダー」なのだ、と。
具体的には次のように語られています。
「鶴見俊輔さんが、20歳を過ぎたら自分の親は自分で決めていいとおっしゃっていました。それは、自分の心の中に現実とは関係なく『自分の親』を持つということです。それとおなじように自分の心の中に自分を超える第三者の存在を措定する。日常的にその人物との対話を深める。そういうリーダーとチーム・自分を組む。それが絶対神を持たない風土に住む日本人が、個人であるための有効な方法のように思うのです」
本書は、時代への危機感から生まれたものです。特に「弱者が切り捨てられても当然だ、しかたがないとされる社会で、子どもたちが周りの空気を読んで、足並みをそろえ、叩かれないように他人の顔色を伺う、ということを無意識的にしている。そこにエネルギーをとられている」ことへの危機感です。そこで、大切なのは、空気を読むことではなく、批判精神を養うことです。そして、正しい批判精神を持つことの大切さを伝えたい、という思いで若い世代や子どもたちに講演をしたことが、まとめられたものです。
まさに悪霊に支配された社会に対して書かれた本だと思いました。
そして、そこで悪霊から解き放たれることは、空気を読もうとする人、空気に従わせようとする人たちからは、驚きの目で見られることでしょう。
軍国主義的な戦前、戦中の国家体制にあって、「日本は負ける」という発言だけでなく、「音楽は楽しむもの」という発言でさえも「非国民」と言われることにつながりました。また、陰で「天皇も人間よ」などと言えば「あんたは恐ろしいことを言うな」と言われた時代でした。悪霊から解き放たれ、良識を取り戻す、普遍的価値を取り戻すというのは、二千頭もの豚が崖から湖になだれ込むような衝撃があるのです。
そのように考えた時、豚飼いの困惑は、そのように悪霊から解き放たれ者によって、これまで既得権を得てきた人たちが、自分たちの権限を失うということを表しているのではないか、とも思えるのです。
この本は「心の中に、批判精神を持ち、他者に倣わないリーダーを持て」というメッセージを語りますが、わたしたちにとって、「ほんとうのリーダー」は主イエスです。そして、主イエスを通して働く聖霊が、一人一人の心に宿っているのです。
藤原正彦氏の主張の中に見る悪霊の様子
一方、この世界は、いつも絶対的リーダーを待っているところがあります。
これも先週の新聞でしたが、「新聞は大切だ、必要だ」という論の中で、『国家の品格』という著書でも名高い数学者の藤原正彦氏(新田次郎の息子)が述べていたことが気になりました。
彼は「賢人の独裁が最も効率的だとしても、理想的独裁者を選ぶ方法を人類は持っていない以上、欠陥はあるが民主主義に頼るほかない。民主主義とはつまるところ国民の多数決なのだから、政治家を選ぶ国民一人一人の大局観が重要になる。そのために、新聞は必要だ」と述べています。
理想的な独裁者が一番だけど、それは不可能なので仕方なく民主主義を選択しているにすぎない、というのです。また、民主主義を多数決と結論づけるのも違います。
民主主義とは、一人ひとりが大切な存在であることを体現しようとしているものです。どうしても必要な場合に、多数決で物事を決めざるを得ないのですが、非効率的であっても、対話や議論を重ねながら皆の平等性と公平性を求めるものです。
悪霊から解き放たれた者として生きる
わたしたちが聖書に聴き、聖書を通して神の声を聴こうとするのは、自分自身や社会に対して、常に自分とは異なる視点を持つ、という意義があります。悪霊がはびこる世にあって、世の中や自分の視点(考え)を超えるためです
聖書が語る聖霊は、特定の人にだけでなく、すべての人に及ぶ神の言葉に現れます。創世記は、人間が神にかたどって造られたことを語っています。神の似像(にすがた)を持つのが人間です。聖書が書かれた当時は、王侯・貴族が神に近い者とされ、その他の人間は王侯・貴族に仕える奴隷でした。聖書は、それとは対極にあります。すなわち、エジプトで奴隷だった人々が神の似像を持っていると語っています。ここに、本来の民主主義の原点を見ます。一人一人が自分自身を超えた神と出会い、神との対話の中から正気になるとき、民主主義は成熟していくでしょう。
主イエスの言葉と出来事が、わたしたちから正気を失わせる悪霊を追いはらいます。さらに正気になった者には、自分の家において、地域において、地道に主イエスの働きを伝える使命が与えられているのです。