聖 書
旧約聖書 イザヤ書44章6節(旧約聖書1133頁)
福 音 書 ルカによる福音書9章7~9節(新約聖書121頁)
説教 「イエスは何者か」 柳谷知之 牧師
主イエスのうわさの広がり
主イエスの様々な働きは、地域的にもユダヤ全土だけでなく異邦人の土地にも広がっていきました。ルカによる福音書の8章までに、主イエスによる様々な不思議な奇跡、律法学者やファリサイ派の人々との論争がすでにたくさん描かれています。死んだ人を生き返らせたり(ルカ7:11~、8:49~)、病気の人や重い皮膚病の人をいやしました(ルカ5:12~)。手が不自由な人の手を直し(ルカ6:6~)、寝たきりの人を起こしました(ルカ5:17~)。悪霊も追い出しました(ルカ4:41,8:26~)。ユダヤ人たちだけでなく、異邦人のいやしもありました。その働きは主イエスだけでなく、弟子たちの働きとしても広がっていきました。主イエスが12弟子に、悪霊に打ち勝つ力、病気をいやす力を与えられ、村々に遣わされました。そこで、弟子たちも、福音を告げ知らせ、人々の病をいやしたのでした(ルカ9章1節以下)。
人々は驚きをもって、伝えていきました。黙れと言われた人も、恐らく口を閉ざすことはできなかったでしょう。
それも、ただ不思議な業を行うひとがいる、すごい人だ、というのではなく、主イエスに対する驚きは相当のものでした。ですから、洗礼者ヨハネが生き返ったのだ、と言う人がいたり、預言者エリヤの再来だ、とか、他の偉大な預言者がよみがえったのだ、と言う人までいたのです。特に、主イエスの奇跡が伝えられたのでしょう。
そのうわさは、とうとうガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の息子、在位 紀元前4-紀元後39年)のもとにも届きました。
ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネを自分が首をはねたことを思い起こしながら、戸惑って言いました。
「一体、何者だろう。こんなうわさの主は」と。
主イエスは何者か、と問うこと。
さて、本日の福音書から、何か神の言葉を導くことができるだろうか、と考えると、なかなか難しいと感じてしまいました。直接的にこうだ、という言葉がないからです。ただし、ヘロデが「いったい、何者だろう」という問いは、その後のルカ福音書の展開において伏線を張っていることになります。また、ヘロデが、主イエスのうわさを聞いてこのように問うことは、実は、これまでに人々が様々に論じてきたことをまとめる形にもなっています。
これまでに主イエスが人々の前に現れて、奇跡を起こしたり、御言葉を解き明かしたり、論争をしたときに、人々や弟子たちが次のように言いました。
「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)、「お前は神の子だ」(4:41)、「神を冒涜するこの男は何者だ」(5:21)、「大預言者が我々の間に現れた」(7:16)、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」(7:49)、「いったいこの方は、どなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」(8:25)。
さらに、悪霊までも次のように言ったのでした。
「神の聖者」(4:35) 、「いと高き神の子」(8:28)と。
このように、人々の間では、いったい何者だろうか、と疑問を引き起こし、不思議にも悪霊が主イエスの本質を見抜いているのです。
これらの続きに、ヘロデの言葉があり、その後、9章20節で、弟子のペトロが「神からのメシアです」と主イエスの問いに答えています。
さらに、主イエスが十字架につけられる前に、主イエスはヘロデから尋問を受けています。(ルカ23:6~12)
この場面は、主イエスがピラトから尋問された後の出来事です。
本日の箇所で、ヘロデは「イエスに会いたいと思った」ということが、十字架を迎える場面において実現します。ピラトは、主イエスがガリラヤ出身だと知って、ガリラヤの領主ヘロデのところに送ったのでした。
ルカによる福音書の23章を見ますと、8節にこうあります。
「(ヘロデは)イエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。」
「以前から会いたいと思っていた」ということが、今日の箇所に描かれていることになります。すなわち、ルカは、十字架の前に主イエスとヘロデを対面させ、その伏線となることをこの9章に描いていた、ということになります。
そして、ルカ福音書の23章で、ヘロデが、主イエスに会いたいと思った理由を見ることができます。なぜ会いたいと思ったのか、というと、ヘロデは、不思議な奇跡を行う人間を見たかったのでした。決して、救い主を待望していたのではなかったのです。
しかし、この時は、主イエスはヘロデの前で何もしるしを行いませんでした。そのため、ヘロデも主イエスをあざけり、侮辱しました。そして、最後に派手な服を着せて、ピラトのもとに送り返したのでした。
このヘロデの姿は、現代に生きる人の姿とも重ねられます。
自分のこととして主イエスに出会おうとするのではなく、興味本位であったり、自分とは関係ないが、奇跡的なことを体験したい、という思いを持つ人々と重ねられます。また、自分の思いどおりにならなければ、平気であざけり、侮辱してしまうのです。
「イエスに会いたい」気持ち
ある牧師が集まる研修会で、講師の方が「わたしはイエス様にお会いしたいと思っている」と言われたのを聞いて、その方の素直な信仰に触れ、うれしくなったのと同時に、どきっとしたことを思い起こしています。そのとき、わたしの胸のうちにあったことは、わたしはそんなに主イエスに会いたい、とは思っていないかもしれない、ということでした。また、実際に主イエスが現れたら、会うのはちょっと怖い、という気持ちがあります。すべてを見通される主イエスに出会う、といことは、そのまなざしの中で、自分のすべてが裸にされてしまうのが怖い、と思うのです。
また、わたしたちは、本当に主イエスに会いたいと思っているだろうか、ということと、もし会いたいという気持ちがあるならば、どんな思いで会いたいと思うだろうか、と思いめぐらしています。すなわち、ヘロデのように、不思議なしるしをみたいのか、多くの群衆たちのように病気が治る事なのか、もっと違う次元で生き生きと生きる事だろうか、などなど。それは、わたしたちが主イエスに何を求めているのかを表すことになります。
主イエスとの出会い
ときどき、次のような声を聞くことがあります。
「もし、今この時代に、イエスが生きていたら、もっと信じる人が増えるのではないか」と。あるいは「実際の主イエスに会えば、自分ももっと信仰深くなるのではないか」と。
しかし、どうでしょうか。わたしはそうは思いません。
主イエスがこの地上を歩まれたとき、確かに大勢の人たちが主のあとに続きました。主イエスが行くところには、大勢の人々が集まってきて、病気が癒されること、悪霊が追い出されることを望みました。主イエスこそ自分たちを救うメシアだと信じたのです。一方、律法学者やファリサイ派の人々、サドカイ派の人々は、大勢の人々が主イエスを支持している様子を見て、恐れました。また、主イエスが律法の秩序を乱していることに怒りを持ち、なんとか殺そうと企んだのでした。
また、熱心に従っていた人々が結局のところ望んでいたことは、ローマ帝国からの解放であり、自分たちの生活が豊かになることでした。弟子たちもまた、誰が自分たちの中で一番偉いかを言い争っていました。
主イエスのことを本当に理解している人はほとんどいなかったのです。
皆、主イエスに目に見えるしるしや行動を期待し、自分自身が変わらなければならないことに目を向けなかったのです。
弟子たちが目覚めるのは、主イエスが十字架につけられたあとのことです。しかも、復活された主イエスに出会ってからのことでした。弟子たちは、主イエスを見捨ててしまったことに後悔し、後ろめたさを抱えていたことでしょう。しかし、復活された主イエスは、弟子たちを赦されたのでした。
トマスという弟子と復活の主との出会いも印象てきです。(ヨハネ20:24以下)
弟子たちが復活した主イエスに会ったとき、トマスはいませんでした。そして、「自分は、復活した主を見なければ信じない、十字架につけられたときの釘跡を見て、その釘跡に手を入れてみなければ信じない」とまで言っていたのです。そのトマスに、復活の主が現れて、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのでした。
主イエスを実際に目で見る、という意味での「会う」ことが、信仰の確信を得るためだとすれば、そのような出会いには意味がないでしょう。
むしろ、聖書を通して、主イエスの言葉や出来事に触れ、その中にリアリティを感じ、この方にこそ自分を救う力がある、と信じることができるならば、そのことが最も幸いなことです。
それは、知識の問題ではありません。「聖書のどこにあれが書いてあって、そこに抗したことが書いてある、主イエスが語られた言葉の意味はこうだ、ああだ」と知ったとしても、それが人の生き方に向かって突き動かすものとならなければ、主イエスと出会った、ということにならないからです。
わたしたちは、礼拝を通して、また聖書の言葉を通して、主イエスと出会い、さらに祈りをもって、その交わりを深めることができます。
「言葉」といっても、単なる「文字」としての言葉ではありません。
十字架の主イエスは、深いところから、私たちに語りかけます。わたしたちは主の前で弱さをさらけ出さざるをえなくなり、何一つ持たない者としてその御前に立たされます。神の前にはありのままでいることができる、という幸いがあります。そこでこそ、わたしたちが滅びに至る道ではなく、神と共に永遠に生きる道を示されます。
パウロが次のように述べることともつながります。
「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(Ⅱコリント5:16) 「わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(Ⅰコリント1:23)
肉に従って、すなわちこの世的な価値観の中で、主イエスを知ろう、という思いはあるでしょう。それと反対のところで、世から見捨てられ苦難を背負った十字架の主イエスとの出会いこそがわたしたちを救いに導くのです。