聖 書
旧約聖書 イザヤ書60章1節 (旧約p1159)
福 音 書 マタイによる福音書2章1-12節 (新約p2)
説 教 「あなたの光の源」 柳谷知之
東方の学者たちの来訪
主イエスがお生まれになってしばらくしてから、東の方から占星術の学者たちがやってきました。彼らは、救いを求めている異邦人でした。ユダヤでは占星術といった占いが禁止されていましたので、彼らはユダヤ人たちからみると大変怪しい人ということになります。一方、占星術は、個人的な占いよりも、国家の大事を占う際にも用いられていましたので、政治的な関係の中で、中枢にいた人たちと考えることができます。西欧の絵画でも「3人の賢者の訪れ」として描かれていたり、「3人の王」として描かれているのはそのためでしょう。
彼らは、星占いをしているときに、大きな星の出現を見ました。そして、それがユダヤ人の王の誕生であると示されました。彼らは、メシアとして生まれるユダヤ人の王が世界の救い主となることを知っていました。そして、その救いを待ち望んでいたのです。当時の世界はローマが丁度帝国となった時と重ねられます。ユダヤ地方は、ヘロデ大王が支配していました。ヘロデはローマにうまく取り入って権力を維持していました。もともとはイドマヤ人と呼ばれる民族で、聖書ではエドム人として登場します。純粋なユダヤ人ではなかったため、ヘロデ大王はエルサレムの神殿を立派なものとし、ユダヤ人たちに認められようとしました。ヘロデ大王は残虐な王としても知られ、身内であろうとかまわずに、自分の権力を脅かす者を殺していきました。
そのようなヘロデの時代に主イエスはお生まれになりました。
ローマ帝国の支配、ヘロデ大王の支配があり、戦争や様々な不安のなかにあった時代でした。
その不穏な空気は、パレスチナ地方だけでなく、他の地域にも広がっていました。
ローマ帝国がさらに東方に進出してくるのではないか、という恐れもあったことでしょう。
真の平和を求めて(もっともその平和がどのようなものであるか確かではなかったことでしょうが)、東方の学者たちはやって来たのでした。
彼らがやってきたのは、まずエルサレムでした。エルサレムは荘厳な神殿が完成したところでした。ヘロデ大王の勢いが増していたころでした。ユダヤと言えばエルサレム。メシアと呼ばれる救い主は、ユダヤの王として生まれるとなれば、エルサレムに違いない、と学者たちは考えたのでした。
救い主はベツレヘムで生まれる
彼らが発した質問
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」は、ヘロデ大王だけでなく、エルサレムの人々を不安にしました。なぜならば、ヘロデの後継者は赤ん坊ではなかったからです。彼らの知らないところで、ヘロデ家の権力の座を奪おうとするものが生まれたのかもしれない、と彼らは感じたのです。自分たちの権力が盤石のものではないことを知ったのでした。
ヘロデ大王は、自分たちの不安を隠して、メシアが生まれる町を律法学者たちに調べさせました。そして、その町がダビデの町と呼ばれたベツレヘムであることが分かりました。
彼らは、学者たちに「ユダヤのベツレヘムです」と告げました。
ここで引用されている聖書は、ミカ書5章1節です。
しかし、ちょっと若干異なります。
ミカ書では、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中で、いと小さきもの」とあります。マタイでは「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。」とあります。何れにしても、ベツレヘムは指導者が生まれる地である、と語ります。いと小さきものと思われたベツレヘムが、メシアの誕生の地として選ばれている、という福音を見ることができます。
再び星に導かれて
ヘロデは、自分もまた救い主を拝みたいから、どこか分かったら知らせてくれ、といって学者たちを送り出しました。
学者たちが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が彼らを導きました。そして、ベツレヘムのある場所の上で止まったのです。主イエスが場所でした。
彼らは喜びに満たされました。まだ主イエスに会う前です。しかし、そこに幼子がいることを確信しています。実際、その家の中に入ると、幼子イエスと母マリアがいたのでした。
学者たちは、最初、星を見て救い主の誕生を知りました。しかし、途中自分たちの考えで、大都市エルサレムを尋ねたのですが、そこには救い主は誕生していませんでした。エルサレムでは、ヘロデが自分の地位が脅かされるのではないか、と警戒心を抱くようになりましたが、救い主が生まれるベツレヘムだと分かります。学者たちがベツレヘムの方向に向かうと、再び星の導きが見えてきたのでした。
ここに、救い主を求めながらも、そのことが人の思いによって曇らされることが示されます。しかし、方向を転換するとまた自分たちの思いを超えた導きに気づかされるのです。
エルサレムからベツレヘムに方向転換するとき、誰もが注目する都市から小さな町に目を転ずるとき、神の導きが見えてくるのです。
栄光について
本日与えられた聖書箇所は、主イエスの誕生のあと、東の方から占星術の学者たちが主イエスのもとに行って礼拝をする場面で、多くの聖書日課では、公現日に読まれるテキストです。同時に、イザヤ書60章1節~7節が取り上げられています。本日は1節しか聞きませんでしたが、続きにはこうあります。「3節 国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。…6節 らくだの大群、ミデアンとエファの和解ラクダがあなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えてくる。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」と。
この箇所が、本日のマタイの出来事と重ねられます。王たちは射し出でるその輝きに向かって歩むのですが、それが丁度星に導かれる学者たちの姿と重なります。黄金と乳香を携えてくる、ということも同様です。
ここで「あなたを照らす光」は、「メシアとしての王を照らす神の栄光」です。ですから、主イエスの全生涯は神の栄光を現します。ただし、「栄光」のもともとの言葉には「重さ」という意味があります。まばゆいばかりの輝きが栄光というのではなく、「存在の重さ」が栄光につながるのです。
主イエスが現される神の栄光は、主の十字架と結びつきます。
主の十字架が、わたしたちにも神の栄光の現し方をしめします。わたしたちも自分の十字架を負うということ、自分自身の深みの中から歩みだすとき、神の栄光につながるのです。
学者たちは、主イエスと出会い、天使から、エルサレムに戻る道ではなく、「別の道」が示されます。わたしたちにも、自分の思いを捨て「別な道」「十字架の道」「主の栄光の道」が示されているのです。