聖 書
旧約聖書 エレミヤ書12章4節 (旧約p1199)
福 音 書 ルカによる福音書9章37~43節a (新約p123)
説 教 「信仰のない時代に」 柳谷知之 牧師
主イエスが山を下りると
主イエスはペトロとヨハネ、ヤコブを連れて山に登られていました。そこで、ペトロ達は主イエスの姿が白く輝き、モーセとエリヤと語り合っている姿を見ました。自分の先生が偉大な預言者たちと語り合っているのは、この世のものとは思えない至福の時でした。しかし、それは長続きするものではなく、再び山を下るという現実が待っていました。その現実において、モーセとエリヤは消え去っても、主イエスが共にいてくださることが分かります。
主イエスが、山を下りると、すぐに大勢の群衆たちが集まってきました。権威ある言葉を語り、病気を癒したり、悪霊を追い出す奇跡をおこなった主イエスは、どこに行っても人から追いかけられました。彼らは、主イエスに期待するところが多くあり、み言葉を聞く、というだけでなく、病をいやしてもらったり、悪霊を追い出してもらうことを希望していました。
一人の男が大声で叫びました。
「先生、どうかわたしの子を見てやってください。悪霊が取りついています」
彼は、悪霊に取りつかれたときの息子の様子を詳しく語りました。
息子が突然叫び出し、けいれんを引き起こして泡を吹く、また、悪霊は息子をさんざん苦しめてなかなか出て行こうとしないのだ、と。
さらに「この霊を追い出してくださるように、お弟子たちに頼みましたが、できませんでした」と語りました。この男性は、主イエスの弟子たちが悪霊を追い出すことができないことに、失望していました。
信仰のない時代
すると、主イエスは嘆きました。
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのだ」と。
弟子たちが悪霊を追い出すことができなかったのは、信仰がなかったからでした。そして、そのように信仰がない時代は、よこしまな時代だ、と主イエスは語ります。
「信仰がない時代」と「よこしまな時代、邪悪な時代」とは結びつかないような感じがしてしまいました。信仰がなくても、人々が互いに思いやる姿があり、正義を求める社会ができるのではないか、信仰がなくてもそれは邪悪なことではないのではないか、と。しかし、ここで改めて信仰について考えさせられます。信仰とは信頼です。神への信頼を表しています。神への信頼のない時代、それは人間中心になる時代を指します。創世記の最初に罪の問題が語られていますが、人間が知恵の木の実を食べたのは、神のようになろうとしたからです。神のようになろうとすること、人間が全知全能であろうとするところに、根本的な罪があります。信仰がない時代とは、人間の価値はじめあらゆる被造物の価値を人間中心に考える、という時代です。本日の旧約聖書は「そこに住み者の悪が、鳥や獣を絶やしてしまった」と語ります。人の罪が、被造物を根絶やしにしてしまうのです。環境破壊の問題は、現代に始まったことではなく、人間の歴史の中で繰り返されてきたことでした。
また、ナチスのように命の選別をして、ユダヤ人はじめ同性愛者や障がい者、政治犯たちを殺戮した歴史をわたしたち人類は抱えています。自分に役に立つか立たないかで判断して、その判断が自然の法則を壊してしまいました。科学万能と言われる時代ですが、本当の科学者は、自分の限界を知り、未知なるものへの畏れを持っているものです。自分の限界を知る者は倫理を持つものとなるでしょう。また、罪の深さは、善意で行っていることが悪い結果を生み出すことです。良かれと思ってやっていることでも、かえって大きな災いをもたらしていることがあります。急激な気候変動による自然災害の激甚化は、その例として考えられます。発端が善意であるほど、その罪はより気づかれにくく、大きい場合があるのです。そのようにして考えると「信仰がない時代」はまさに「よこしまな時代」だと考えられます。
悪霊を追い出す
さて、主イエスは、男の願いを聞いて、子どもから悪霊を追い出しました。
悪霊に取りつかれた子どもの様子は、てんかんの症状と似ています。ある解説書は、あっさりと現代のてんかんである、と述べますが、だからといって、この時代の悪霊は精神疾患の一つである、と考えることは、考え方を狭めることになります。
かつてスリランカの悪魔払いの話を読んだことがあります(『スリランカの悪魔祓い』上田紀行著)。いわゆる悪魔に取りつかれた人は、村人が総出となって悪魔祓いの儀式をして、夜を徹して、本人を正常にします。その際に、権威ある悪魔祓いの人の言葉「悪魔よ、出ていけ!」が最後は決め手となります。ところが最近は、それは精神疾患だ、ということになり、病院の中で行われるようになっている、とのこと。医者は、悪魔祓いは病院でできることになり、お金も時間もかけずに済むようになった、と誇らしげに語るのですが、著者は疑問を呈しています。村総出で行っていた悪魔払いには、病院にはないことがある。それは、悪魔に取りつかれていることを共同体の問題として扱っていることだ。精神疾患を個人的な病としてしまうと結局は人とのつながりがなくなり、また共同体での居場所が失われたままになる、その人は共同体の中で居場所を得なければまた悪魔に取りつかれるのではないか、という疑問でした。
ですから、聖書が語る悪霊は、現代の精神疾患だと狭めて解釈するよりも、神との交わりを絶たせ人との関係を壊す存在と考えた方がよいのです。
主イエスは、子どもから悪霊を追い出しました。それは、子どもを親との関係に戻すことであり、他者とのつながりを回復させることでした。聖書が「イエスは汚れた霊を叱り、子どもをいやして父親にお返しになった。」とあるように、いやした子どもをそのままにされるのではなく、父親との関係を回復されたのでした。
弟子たちが、悪霊を追い出すことができなかったことには次のような理由を考えることができます。
- 弟子たちは、自分が悪霊を追い出す力(権能)を持っている、と自負したため、神により頼むことがなかった。
- 悪霊を個人的な出来事として考えてしまい、悪霊を追い出したあとの子どもの居場所を用意できなかった。
- 悪霊を追い出すために権威が必要であるが、その権威が弟子にはなかった。
いつまであなたがたに我慢しなければならないのか
ただし、弟子たちが悪霊を追い出すことができなかったことが、信仰生活にとって致命的なことではないと考えます。
主イエスは、「いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と言われましたが、だからといって弟子たちを見捨ててしまったのではありません。弟子たちがやがてはご自分を裏切ると知りながらも、弟子たちと忍耐強く共にいて、病をいやしたり、悪霊を追い出したりする旅を続けられたのです。その道は、十字架へと向かいました。
主イエスご自身が、忍耐しつつも共にいてくださる、というところにわたしたちの救いはあります。
何度も同じ過ちを繰り返さざるを得ない者であるかもしれません。
しかし、主イエスはわたしたちに忍耐してくださる方であり、待っていてくださる方です。
だからこそ、私たちは主イエスを頼みとしてよいのです。
むしろ、主イエスはそうされることを望まれていることでしょう。
主イエスの望みから、わたしたちを遠ざける力も悪霊の力です。
主イエスは、わたしたちと共にいてくださって、私たちの中からも悪霊を追い出してくださる方なのです。