2021年5月30日 礼拝説教 三位一体主日

聖書

旧約聖書 イザヤ書6章3節 (旧約p1069)

福 音 書 ルカによる福音書10章21-24節 (新約p126)

説 教 「賢い者は知らない喜び」 柳谷知之

主イエスの喜び

主イエスは、喜びに満たされて言われました。そして、次のことを喜ばれているのだと思います。

「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(ルカ10:21)

「これらのこと」とはその前に起こった出来事です。すなわち、弟子たちを派遣して、その弟子たちが口々に「先生のお名前で悪霊が屈服します」と言って帰って来たことでした(ルカ10:17)。主イエスはそれを聞いて「わたしはサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」(ルカ10:18)と言われました。弟子たちがそのように言って帰ってくるのを主イエスはあらかじめ分かっていたのでしょう。さらに「悪霊が屈服するからといって喜んではならない。それよりも、あなたたちの名が天に記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と言われたのです。

弟子たちの働きを通して、神がこの世に勝利されていること、主イエスを信じる者たちが天に名を記されていることを明らかにされたのです。

ここに主の喜びがあります。

愚かさの中で

そして、主イエスは、そのことが「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われます。神の勝利は、幼子のようなものに示され、世にあって知恵あるものや賢い者には隠されているのです。すなわち、世に在っては愚かな者とされている者、幼子のように世にあって軽んじられている者たち、力のない者たちに示されているのです。

福音というのは、世の知恵ある者には隠されているのです。

その点では、パウロが次のように述べていることとも関連します。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」(Ⅰコリント1:26-27)

今週、わたしはこの愚かさについて思いめぐらしました。

世から見て、神の愚かさとは何よりも主イエスの十字架の道です。十字架刑で殺されるというのは、世の価値観では終わりです。それ以上の発展はありません。しかし、聖書が伝えていることはその先があるということです。そして、十字架によってしか救われない命があることを伝えるのです。

世にあっても、十字架の道を暗示する出来事が時々あります。

例えば、大泉洋という俳優に関してです。

彼は北海道出身の役者として知られています。様々なドラマや映画に出演し、司会などもすることがある売れっ子です。あるトーク番組で、次のようなことを話していました。

彼は、2浪してある大学に入りました。希望の大学に入る事ができず絶望的になっていたとのこと。死のうと思ったこともあったようですが、このままじゃだめだと思って、演劇研究会に入ったのです。仲間に出会い、楽しく学生生活を過ごしました。もともと持っていたであろうエンターテイナー的な要素に磨きがかかりました。さらに、一度は演劇はこれで終わりだ、と決めたものの、さまざまな出会いや出来事があり、演劇を生業とし、現在があるのです。その彼がこう語っています。

大学受験に失敗して今がある。だから、これからどんな失敗をするのか楽しみだ、と。

丁度そのインタビュー番組を見た後で、教団出版局が出している「こころの友」を見ると、マンガ牧師としても知られる春名康範牧師が、自分は高校受験に失敗して友達ができ、クリスチャンになった、なんてことを書いていました。

世にあって賢い者、力ある者は、失敗を恐れ、失敗を歓迎することはないでしょう。失敗しないように生きようとするのです。失敗したらどう責任を取るのだ、と迫ります。

しかし、主イエスの十字架が示すことは、失敗と思えるような出来事にあって、希望が示される、ということです。失敗したとしても次に向かう一歩があることを信じることができるのです。そのことを受け止めると、失敗を恐れなくなるのではないでしょうか。

失敗しない人生は、ある意味計算づくの人生です。自分の思い通りの生き方かもしれません。しかし、その枠は自分でつくったものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。

しかし、人は独りで生きるのではなく、交わりの中に生きるものです。また、出会いがあるものです。その出会いが人を思いがけない方向へと向かわせるのではないでしょうか。

わざと失敗しろ、というのではありません。目指すところはあるのです。ある成功を夢見たり期待します。しかし、失敗してしまうことがあります。それでもなお神の光があると信じるものはそこから先に進むことができるでしょう。神の業としての復活があります。別な視点が与えられれば、生きる事が許されます。それが赦しに生きることでもあるでしょう。

聖霊の働き

主イエスは、ガリラヤの漁師や徴税人など世にあって蔑まれている者たちを招かれました。しかし、そのような弟子たちが、主イエスの名によって悪霊を屈服させたことを喜んで帰ってきました。主イエスにとって、そのことよりも、そのような弟子たちが神の勝利の中に生きていることを喜ばれるのです。そして「多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」と言われます。

偉大な王や預言者たちが聞くことができなかった福音を聞き、その果実を弟子たちは見ているのです。

それは、あなたがたの名前が天に記されていること(ルカ10:20)です。

主イエスは十字架の道を歩まれます。それは決してご自身が望まれたことではなかったでしょう。できれば避けたい苦い盃でした。しかし、そこに神の御心がありました。

神のご計画をわたしたちは最初から信じられるのでしょうか。私自身は、神のご計画はいつも後付けだと思っています。後から振り返った時に、そこに神が共にいてくださったことが分かるからです。

そして、それが聖霊の働きではないかと思うのです。創造主なる神が私たちを産み、養い育てます。子なる神は、その私たちが苦難にあるときにこそ励まされます。

思いがけない出来事に悩んだり、苦しんだりします。すべてを否定したくなることもあります。しかし、何かの拍子に、出来事の見方が変えられることがないでしょうか。誰かの言葉や出来事において、物事の見方が変えられるとき、聖霊の息吹・風が私たちに吹いているのです。

主は言われます。あなたがたの名前が天に記されている、と。であるからこそ、聖書の言葉に基づきながら、あらゆる出来事の中に神のメッセージを聴き取ることができるのです。そこに聖霊の働きがあります。

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