2024年5月19日ペンテコステ礼拝説教 「考えもしないことが起こる」

聖 書

旧約聖書 エゼキエル37章9-10節(旧約1357頁)

新約聖書(使徒書) 使徒言行録2章1~11節(新約214頁)

説 教  「考えもしないことが起こる」  柳谷知之 牧師

本日は、聖霊降臨を祝う日であります。聖霊とは何でしょうか。聖霊はどんな働きをするのでしょうか?

また、わたしたちはと聖霊はどんな関係にあるのでしょうか。そして、どんな時に聖霊を感じるのでしょうか?

そのようなことを思いめぐらしつつ、本日の聖書から聞いていきたいと思います。

◆聖霊とは

主イエスは復活されて40日目に天に昇られました。その前に、弟子たちに主イエスはこう語られています。

「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)

父が約束されたもの、高い所からの力というのが、聖霊です。

そして、その力を受けると、弟子たちは、「これらのことの証人」(ルカ24:48)になるのです。

「これらのこと」とは、

「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に伝えられる」ことです。すなわち、弟子たちは、主イエスの苦難と復活との証人であり、さらに、弟子たちの働きを通して、あらゆる国の人々に、悔い改めを伴う罪の赦しが伝えられていくのです。

一方、ヨハネによる福音書では、聖霊について次のように語られています。

主イエスが十字架につけられる前に、弟子たちに語っていました。

「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」(ヨハネ14:16,17)

「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)

これらのことからも、聖霊は、主イエスに代わって弟子たちと永遠にともにいる存在であり、真理を教える助け主であることが分かります。

ですから、主イエスが次のとおり言われているのです。

「(あなたがたは)引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコ13:11)

聖霊が、私たちに語るべき神の言葉を教えるのです。

御言葉が深く心に届くとき、神の言葉、主イエスの言葉が本物だ、と感じさせられるとき、そこに聖霊が働いているのだ、聖霊が降っている、と言えるのです。

さらに、本日のエゼキエル書によれば、神の霊は、命を与える存在です。枯れた骨、とても復活しそうにない存在に、神の霊が吹き込まれ、自分で立つことができるようになるのです。枯れたように何の望みもなく生きている状態に、神の霊は、希望の言葉をもたらします。主イエスの十字架が絶望で終わらず、復活の命に生きたように、神の霊によって人は本当の命を得ていくのです。

主イエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と言われたように、聖霊の働きによって、神の言葉が人の心の中で実を結び、命を得ていくのです。

パウロは、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリント12:3)と語ります。主イエスが救い主であると告白できるのは聖霊が働いたからです。

◆聖霊降臨の出来事

本日、ご一緒に聞きました聖霊降臨の出来事も以上のようなことと結びつきます。

弟子たちは家の中に一つになって集まっていると、激しい風が吹いてくるような音とともに聖霊が降りました。

聖霊は、炎のような舌が分かれ分かれになって、弟子たちの頭の上に留まったのでした。

この「舌」は、まさに言葉を表します。

ですから、彼らは語りだしたのです。聖霊に満たされて語る言葉を得たのです。

その言葉は、弟子たちが慣れ親しんだ言葉ではありませんでした。

エルサレムには五旬祭(七週の祭り)ということで、様々な地方から人々が集まってきていました。多くはユダヤ人であったと考えられますが、ユダヤ地方以外に住むユダヤ人は、それぞれ自分たちが住む地方の言葉を母語としていました。

その彼らが、自分たちの故郷の言葉を聞いたのです。

彼らは、当時の地中海世界を囲むところからエルサレムに集まっていました。

パルティア(イラン)、メディア(イラン北西部)、エラム(メソポタミヤ東部)、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキア(トルコ)、ポントス(黒海南岸)、アジア(小アジア)、フリギア(トルコ中西部)、パンフィリア(トルコ南部)、エジプト、リビア地方、ローマ、クレタ、アラビアといった地名が登場しますが、それらの地域から来た人々でした。

彼らがみな自分の言葉で聞いた内容はどういったことでしょうか。

人々は「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚いているのです。

そこで、ペトロ達、弟子たちが語った神の偉大な業とは、どんなことだったでしょうか。

そのペトロの説教は、今日聞いた次の段落で語られています。

それは、ナザレ人イエスは、神から遣わされた方で、偉大な業、しるしによってそのことが証明された、ということ。あなたがたユダヤ人がこのイエスを十字架につけて殺してしまったが、神が復活させられたこと(使徒2:22~24)、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊が自分たちに注がれたこと(使徒2:33)、神はイエスを主、メシアとされた(使徒2:36)ことです。

聖霊によって、弟子たちは主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語るようになったのですが、別な角度からみれば、聖霊によって、神の偉大な業は、言葉の壁を越えていくのです。

その意味では、まさに時代を超えて、文化を超えて、言葉の壁を越えて、わたしたちのところに主イエスの出来事、神の国の福音が届けられているということは聖霊の働きです。

◆聖霊を感じるとき

聖霊は、聖書の言葉であるヘブライ語でもギリシア語でも、またラテン語でも風や息を意味する言葉が使われています。ラテン語から英語になったスピリットという言葉はなじみがあるのではないでしょうか。また、ひらめきを意味するインスピレーションという言葉も、スピリットと関係します。

これまで思いもしなかったことが浮かんだり、考えもしなかったことを思いついたりするとき、ひらめく、インスピレーションが湧く、といったりします。そのような感覚が霊感といってもよいでしょう。そして、神の働きと結びつくひらめきこそ、聖霊の働きといえるのではないでしょうか。

ただし、私は若いころに、聖霊は後付けだ、と言われたことを思い起こします。その時にはわからないけど、後で考えると、あの時のことは聖霊が働いたとしか思えない、ということがあるのです。

聖書の言葉あるいはこのような説教の言葉が、神の言葉となるとき、聖霊が働いた、といえるのです。

また、誰でも不思議な導きということを感じたことがあるのではないでしょうか。

聖霊は不思議な働きです。子どもさんびかには、「ふしぎな風が」という歌があります。

「ふしぎな風がびゅうっとふけば なんだかゆうきがわいてくる イエスさまの おまもりが きっとあるよ

それが聖霊のはたらきです 主イエスのめぐみは あの風とともに

「ふしぎな風がびゅうっとふいて 心の中までつよめられ 神さまの子どもに きっとなれる

それが新しい毎日です わたしの命も あの風とともに」

皆さんが日々聖霊を豊かに受けますように。

聖霊によって、皆さんの生活がさらに豊かなものとされますように。

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