2021年5月16日 礼拝説教

聖 書

旧約聖書 エレミヤ書10章5節  (旧約p1195)

福音書  ルカによる福音書24章44~53節 (新約p161)

説 教 「主イエスの祝福」 柳谷知之

神の国について

先週の木曜日が、主イエスの昇天日でした。そして、今日はその昇天の場面を聞きました。

使徒言行録1章3節によれば、主イエスは復活後40日間、弟子たちと一緒に過ごされました。弟子たちに神の国について話すためでした。神の国とは、私たちの最後の目的といってもよいでしょう。死後の世界としての天国だけを意味するものではありません。

主イエスは。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)と言われたり、「神の国は見える形ではこない。…実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)と言われました。

ここには、神の国に私たちが行く、というよりも、神の国は向こうからやってくる、というイメージがあります。それは、私たちが使徒信条においても告白しているとおり、キリストが再び来られるということに重なります(かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん)。終わりの日の裁きにもつながりますが、それによって救われる、という希望が示されているのです。

先日配られた教区通信で、神の国について、宮本義弘牧師と及川信牧師の対談が載っていました。お二人とも脳梗塞を経て、聖書の読みが変わった、というところからの対談でした。パウロは神の国の希望に生きていた、キリストを通して必ず勝利することを信じられるから、希望がある、と及川牧師が言われていました。また、宮本牧師は、主イエスと出会って、主イエスの弟子になるということについて、神の国のために主イエスの手伝いをするとか何かする、というよりも証言者になることが求められている、と語られていました。

今日の聖書でも、主イエスは、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われます。今日の箇所と合わせてみると、神の国は、モーセの律法と預言者の書と詩編が実現する場である、と言えます。律法や預言者の書そして詩編とは、今私たちが手にしている旧約聖書を指します。そして、その本質は神の愛です。神の愛が実現するのです。そのことが主イエスの十字架と復活の出来事によって現され、罪の赦しがありました。聖書は、神から引き離す力として「罪」を語ります。倫理的に間違ったことや不道徳だけを意味するものではありません。人が自分自身を受け入れられなかったり、自分に与えられた恵みを忘れてしまうこともそうです。また、自分の力だけで生きなければならない、というところにも罪はあります。なぜなら、自分だけで生きるということは、他者を必要としない生き方となり、結果誰との交わりも必要としないことになるからです。ですから神の国が実現するところでは、神の愛を信じられないというところから、神の愛を信じるという悔い改めが起こるのです。神の国が到来するときには、罪の力は無力化され、人が神と永遠に共に生きるようになるのです。

「悔い改める」ということは、自分中心で物事を見たり考えていたことから解き放たれ、神の視点で物事をとらえ直す、ということです。

神などいない、と考えていたところから、神が存在し、愛をもって臨んでいてくださることを知るなら、そこに考え方が切り替わります。年を取れば、衰えていくばかりで恵みがないと思われているなら、年を取る恵みを知るならそれは悔い改めです。

病気になり、様々な機能が失われていっても、最後にキリストは勝利されていると信じることができるのも、悔い改めだといえます。

40という期間は、神の時を現します。主イエスは、限られた時間の中であったかもしれませんが、十分神の国について弟子たちに話したのでした。福音書に現れている主の姿が神の国の恵みと希望をすべてです。

神の国の恵みと希望の証言者となるために高いところからの力、すなわち聖霊が送られることが約束されています。

その聖霊を待つために、弟子たちはエルサレムに留まるように言われるのです。

エルサレムは、神の神殿があり、主イエスの十字架と復活が起こった場所だからです。

主イエスは今もわたしたちを祝福されている

 主イエスは弟子たちにすべてを話し終えると、ベタニアのあたりまで彼らを連れて行き、そこで彼らを祝福されました。ベタニアは、マルタやマリヤそしてラザロが住んでいた村でした。主イエスがエルサレムに向かう時の拠点でもあったと思われます。そこまで来てから、主は天に向かわれました。弟子たちを祝福され、祝福したまま天に上げられたのです。

祝福は両手を上げてなされました。

そして、 弟子たちを離れて天に上げられたのです。

聖書が語る「天」は、場所や空間の概念というよりも、神がいる場です。すなわち、主イエスは神と等しい方として神と共におられるという信仰が現されています。

天は確かにこの世界と次元の異なる場です。主イエスは弟子たちを離れますが、全く見えないところにいってしまったのではありません。弟子たちを見放されたのではありません。

主イエスは、神が約束された聖霊を通して、いつでも弟子たちと共にいてくださいますし、またそれは今現在も私たちと共にいてくださるのです。聖霊の働きによって、わたしたちは聖書を読んだり、また礼拝に連なる中で、主イエスが今も私たちに語りかけ、共にいてくださることを知ることができます。

ですから、主の祝福はそのまま今も続いているのです。

主は、祝福したまま天に上げられ、その手を下ろされることはないのです。

主イエスによって、この世界の呪いは破棄されました。主イエス以前は、十字架は呪いの出来事で残酷な死の象徴でしかありませんでしたが、今や、十字架は罪の赦しと御国つながる出来事となったのです。

主イエスの十字架と復活は、その後に生きた弟子たちの働きを通して、世に伝えられました。特に新約聖書の中でパウロの書簡は大きな働きをしています。パウロは、迫害者から迫害される者へと転換した人物です。その人物を通して、十字架と復活の命がより豊かに現されているのです。

主イエスの祝福

そのパウロが受けた恵みの中でも、私たちの考え方や見方を変える言葉がいくつかあると思いますが、私自身は次の言葉にとても慰められ励まされます。

パウロは肉体的精神的棘のために、十分伝道することができないと考えていました。この棘はサタンの使いだとパウロは考えました。

そこで主に「この使いについて離れ去らせてくださるよう」何度も願いました。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われたのです。パウロはこの恵みに気づき、大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう、と語り、「わたしは弱いときにこそ強い」と述べているのです。(Ⅱコリント12:7-10)

神は私たちの弱さをご存知です。また私たちは弱いからこそ互いに共に生きるようにされるのです。自分一人ですべてのことが可能であれば、人に頼ることもなく、交わりや愛の関係を必要としなくなるでしょう。

主イエスの祝福は、主イエスの十字架によって自分たちの弱さを経験した弟子たちだからこそ受ける祝福です。

その祝福は、聖霊を受ける約束でもあります。聖霊はわたしたちを神と人と結びつける働きをするからです。

「聖霊を受けなさい」と主は言われます。

そして、聖霊の働きの中で、教会が生まれてきました。

私たちが共に生きるようにされているのです。

次週の主の日に、共に聖霊降臨を祝いましょう。

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