2021年9月5日 礼拝説教 聖霊降臨節第16主日

聖書

旧約聖書 アモス書8章1~3節 (旧約p1439)

1 主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、一籠の夏の果物(カイツ)があった。主は言われた。2 「アモスよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「一籠の夏の果物です。」主は私に言われた。

「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。
もはや、見過ごしにすることはできない。
3 その日には、必ず
宮殿の歌い女は泣きわめくと
主なる神は言われる。
しかばねはおびただしく
至るところに投げ捨てられる。
声を出すな。」

新約聖書(福音書)ルカによる福音書12章54~56節 (新約p134)
54イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。

説 教 「時を見分ける」    柳谷知之牧師

天気を見分ける

この松本の近辺では、山に低い雲がかかると明日は雨だ、などと言われます。山の天気は変わりやすいと言われますので、登山などする人は、天気を読むことが求められます。農作業など外で仕事をする人も、天気を気にして、予測することが身についていることでしょう。日常の中で、私たちも空模様を見て、雨だ、晴れだ、などと判断することがあります。

主イエスの時代も、人々は空の様子から天気を見分けてきました。

今日の聖書の言葉では、主イエスは、あなたがたは天気を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか、と問われます。

今の時~神の国に向かう

今の時を見分ける、と言われると、最初、時代を読む、ということを意味しているのではないか、と思いました。

今の時代、何が起こっているのか、しっかり把握しなくてはならない、とか、これからの時代に何が起こるのか、時代の空気を読まなければならない、ということが、政治、経済、ビジネスの世界でも言われていることです。

私たちがいま生きている時代は、どんな時代だと言えるでしょうか?

大災害の時代と言われます。ミャンマーでは軍事政権の独裁的な支配があります。アフガニスタンでタリバンが政権をとりました。世界が混乱している時代です。日本でもこれから政府はどうなるか、見通せない状況があります。

AI(人工知能)が活躍する時代です。インターネットやIT機器が想像をこえて用いられていく時代です。

世界的に感染症が流行する時代となりました。…。

しかし、主イエスはただ時代の空気を読みなさい、これから何が起こるか見極めよ、と言われているのでしょうか?

そのことをすこし思いめぐらしてみます。

主イエスが、ここで「時」と言ってところに用いられているのは「カイロス」という言葉です。新約聖書が書かれた時代のギリシャ語には「時」を表す言葉として「クロノス」と「カイロス」がありますが、「クロノス」は、時計などのように計れる時間を表します。何時間たった、とか、何月何日といった時を表すときに、この言葉が用いられます。一方、聖書が「時」と語るときは「カイロス」が用いられます。これは、計測できるような時間ではなく、決定的な時を表します。質的な時を表します。主イエスが、ガリラヤで宣教を開始された時に、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)と言われましたが、この「時」は「カイロス」です。「時が満ちる」というのは日本語では機が熟した、といってもいいかもしれませんが、「カイロス」は「機」と考えることができます。チャンスを表す「機会」とか「機を見る」とか「機を逸する」などと用いられる「機」です。

この「時」(カイロス)の使われ方を見てみますと、ルカによる福音書の19章の43、44節に次のような言葉があるのを見ます。

主イエスがエルサレムを前にして、嘆かれる場面です。

「やがて時(その日)が来て…お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださるをわきまえなかったからである。」

エルサレムが滅びてしまう、それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからだ、と言われます。その「神の訪れてくださる時」に、今日と同じ「カイロス」が用いられています。

そのことと併せて考えると、主イエスが言われるのは、神の国が近づいている「時」を見分けるということではないか、と言えるでしょう。

当時は、ローマという国が帝国化しますます権力や軍事力を集中させていく時代でした。エルサレム神殿はヘロデ大王のもとでかつてのように壮大に再建されて、ますます栄華を極めるかと思われる時代でした。一方、人々の生活の格差はすすみ、田舎では大土地所有者が現れ、土地を奪われ貧しくされた農民たちが都市に集まってきていた時代でした。権力者や富める者たちは自らの立場をますます守ろうとし、貧しい者たちは救世主(メシア)を待ち望み、ローマ帝国からの解放、世の中が変わることを待ち望んでいたのです。

歴史的にみると、主イエスの十字架のあと、ユダヤ人たちはローマ帝国に反逆し、結果エルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人たちの自治的な組織も破壊され、再びユダヤ人たちは流浪の民となりました。(ユダヤ戦争66-73年)。

ユダヤ人たちは、自らの力によって神の国を目指したのです。ローマ帝国に力で抵抗し、自分たちの自治、多神教的なローマ帝国に対して、神のみを神とする世界を築こうとしたのです。結果、大きな軍事力の前に屈していったのです。

人間的な思いの中では、権力者の思い、民衆の思いなどで、今の時代を読むことがあります。

しかし、神の視点、主イエスの視点からみれば、神の国は近づいているのです。それは、この現実の中に始まっているのです。

それをどうして見分けないのか、知らないのか、と問われます。

「神の国」が近づいていることを知っていたならば、もっと違う行動や態度や働きになるということではないでしょうか。

実際に、原始キリスト教は、武力などによらず、地道に人々の間に、主イエスの福音を伝えていきました。神の国が近づいている、神の支配がもたらされることを信じ、神にゆだねつつ歩んできたのです。迫害があり、悲しい出来事、悔しい出来事も多々あったことと思います。怒りさえあったことでしょう。しかし、神が共にいてくださる、すべてを神が支配されていることを信じていったのです。

神の国が近づいていることを知りなさい、と主は言われているのです。

(12章31節 ただ神の国を求めなさい、とつながります。)

「偽善者」から共に生きる者に

主イエスが今回話をされたのは、群衆に対してでした(54節)。その群衆を前に「偽善者よ」と呼びかけます。この前に主イエスが「偽善」を使われているのは、12章でした。そこでは、律法の学者やファリサイ派の人々の「偽善」に気をつけなさい、と言われています。「偽善者」というと、律法学者やファリサイ派、祭司長たちのような宗教的リーダーたちを思い浮かべていましたが、人々に対して「偽善者よ」と呼びかけています。これは辛辣な感じがしますが、何をもって「偽善」と言われているのでしょう。

人々は、主イエスの言葉、奇跡、行いに惹かれて、集まってきていました。主イエスが示される神の国のためではなく、自己中心的だったのではないでしょうか。(弟子たちもエルサレムに向かう主イエスに自分たちが偉くなれるよう願いました。―マルコ10:35以下)

主イエスに従っているように見えて、自分の願いを中心にしているような人々に対して、「偽善者よ」と呼びかけるのです。主イエスは、厳しく呼び掛けながらも、そのことを通して、あなたは本当に「神の国」を求めているか、と問われるのです。

「神の国」は、共に生きる世界です。神と共に、他者と共に生きる世界です。誰も一人で生きる事はできません。人間だけの快適さだけを追求できないことが分かっています。

感染症や貧富の格差が拡大する中で、自己責任が当然のように言われる世界にあって、既に神の国がはじまっています。神と共に、他者と共に生きる世界に目を向けるように、私たちは神に呼びかけられているのです。

「神の国」の中に生かされている喜びが、この世界に広がるよう祈り求めて生きましょう。

 

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする