2021年10月3日 礼拝説教 聖霊降臨節第20主日

聖書

旧約聖書 ヨナ書3章4,5節 (旧約p1447)
 4 ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」5 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。

新約聖書(福音書)ルカによる福音書13章18~21節 (新約p135)
 18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

説 教 「成長する神の国」 柳谷知之牧師

知らないうちに成長する神の国とは?

教会報「やまびこ」に、新潟の見附教会伝道師の横内美子先生の文章が寄せられています。「不思議な種蒔きの話」と題して、見附教会牧師館の壁に沿って金魚草が生えたり、ホウズキが生えたりして不思議な種まきがある、とのこと。「知らずに蒔いたのは花の種ばかりではありませんね。信仰の種を蒔かれましたね」と続きます。

それで思い出したのが、茨木のり子「花ゲリラ」という詩でした。

「あの時 あなたは こうおっしゃった/なつかしく友人の昔の言葉を取り出してみる/私を調整してくれた大切な一言でした/そんなこと言ったかしら ひゃ忘れた」とはじまり、「どこかに花ゲリラでもいるのか/ポケットに種子をしのばせて 何喰わぬ顔/あちらでパラリ こちらでリラパ!/へんなところに異種の花 咲かせる」で終わります。花の種のことではなく人の言葉のこと。

「思うに 言葉の保管所は/お互いがお互いに 他人のこころのなか//だからこそ/生きられる」

誰かの言葉が、発した本人さえ忘れているような言葉が、誰かの心の中で生き続け、その人を支えている、ということがある、それを花ゲリラに例えているのです。

花ゲリラという言葉も、なじみがあるとは言えないのですが、2008年に「花ゲリラ」という映画があったようです。それは実際に線路端や公園や道端のようなところに夜こっそりと種を蒔いている青年たちの物語のようですが、知らないうちに咲いている花が人の心を潤している様子も描かれていました。

思えば聖書の言葉も同じかな、と思います。

何千年も前に、市井の人が書き残したり、つぶやいた言葉が伝えられ、聖なる書に組み込まれています。言った本人、書いた本人は、若しかするとそんなつもりじゃなかったのに、と思っているかもしれませんが、様々な状況の中でその言葉が人の心を震わせ、真実を語る言葉となっていったに違いありません。

福音宣教の働き、神の国を宣べ伝える働きも、言葉の種まきです。その言葉は、発せられた言葉に限らず、出来事として現れたことも含んでいます。

以上のことを思いめぐらしつつ、今日の神の国のたとえをご一緒に考えたいと思っています。

主イエスは神の国について、二つのことを通して語られます。

からし種

まず、からし種についてです。

からし種は、英語はマスタード・シードといいますが、常識的にはわたしたちが食用にしている洋がらしのイメージがあるかもしれません。この粒はそれはそれで小さいと思いますが、主イエスが言われているからし種は、これよりもさらに細かいものです。右図のように、お米粒と比べてもはるかに細かい粒です。これが、その下の図のように、最大3mぐらいに大きく成長するのですから、大昔の人もあんなに小さな種から大きな植物が育つなんて、すごいなぁ、と思っていたのではないでしょうか。

大きく成長して、空の鳥が巣を作るぐらいに成長する、そのようなからし種のように、神の国も大きく成長するのだ、と主イエスは言われるのです。それは、鳥が巣を作るほどの大きさになるのです。

パン種

 次にパン種のことが語られます。

三サトンの粉にパン種を入れると大きく膨らむとあります。一サトンは12.8リットルですから、三サトンは、30リットル以上になり、普通の家庭で作る量をはるかにこえています。パン作りを皆で共働で行っていたか、商売としてパンを作って売っていた人々の様子が思い浮かぶでしょう。

パン種は、パンを発酵させる酵母菌のことですが、イスラエルでは決して良いイメージではありませんでした。過越しの祭りに食べるパンには酵母をいれないことが命じられていました(出エジプト12:14-15、13:3、申命記16:3...等々)。主イエスも「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」(ルカ12:1)と言われています。ですから、この譬えを聞いている人々は、神の国の広がりがパン種に譬えられていることに違和感を感じたことでしょう。

空の鳥が巣をつくる

これらの譬えを少しだけ深読みしたいと思います。

まず、鳥が巣をつくる、ということです。ただ成長した種が大きく育つ、という意味以上に、神の国は成長して、多くの人たち―特に、それは空の鳥のように地に属さず、旅人のような存在―が身を寄せることが意味されています。この世に居場所を持たないものたちが、神の国に身を寄せ、そこを巣とする、家とすることができるのです。随分前の教会報「やまびこ」を読んでいたら、当時来ていた大学生が次のようなことを書いていました。自分がクリスチャンファミリーに生まれたこと、洗礼を受けた教会は家族、親戚、顔なじみの教会の人たちがいることを述べ、「一方、松本教会には僕がお世話になっている先生や教会の方はいますが、僕の家族はいないし、親戚もいない。むしろ、面識のない人ばかりです。ですが…ここには母教会を思い出させる親近感、家庭のようなぬくもり、そして、ここは自分の居場所なんだと感じられる心地よさがあります。」(やまびこ121号、2016年)

神の国すなわち神の支配、神がいてくださるという領域が広がるときに、ある人々にとっての居場所ができるていくのです。

パン種の意味

 また、酵母(パン種)の働きは当時の人間の思いを超えた不思議な働きでした。ただ不思議な働きというだけでなく、ユダヤの人々にとってそれは警戒すべきもの、忌まわしいものと関連づけられていたようです。しかし、主イエスは、あえてそのパン種に神の国を譬えられました。

世の常識ある人たちにとって、また世を支配している者たちにとって、神の国の働きはパン種のように取り除かれるべきものでした。実際に、主イエスの働きは、世の支配者にとって秩序を乱すものでした。ですから、当時の大祭司は「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」(ヨハネ11:50)と言って、他の祭司長やファリサイ派の人々に、主イエスを殺すことが必要だと訴えたのでした。

世の主流の人たちが取りのぞこうとする神の国の種は、ほんの少しでも残っているならば、全体を大きく膨らますことができる、という希望が語られています。

主の十字架を通して

以上のように考えていくと、これらの譬えが、神の国の方向性とそれに伴う困難、それにもかかわらず広がりゆくものであることが分かります。

私たちもまたこの神の国の中にいます。神が一人一人を捉えてくださっているからです。

神の国の働きは、この世的にはとても小さかったとしても、恐れることはありません。神はからし種のように、またパン種のように、その領域を広げてくださるからです。

ただ、わたしたちがその種を失わないように、またその種を蒔きなさい、ということではないでしょうか。

神の国は逆説的に示されます。主イエスの十字架が最もそのことを表します。世は福音を滅ぼそうとしました。実際に主イエスは殺されました。しかしそれで世が勝利したのではありません。むしろ、主の十字架によって罪の赦しが示されました。世の悪に対する神の勝利が現されました。永遠の滅びではなく永遠の命が明らかにされました。主が復活され、弟子たちは回心し、福音を宣べ伝えていきました。教会の歴史の中には、いつも迫害があり、疫病があり、困窮がありました。教会自体が主の十字架を忘れ、世に迎合し堕落したと言われる時代もありました。しかし、神の国の種は小さくても蒔かれれば大きく成長するのです。

これらの譬えは、わたしたちが福音の種を失わないように、福音の種を蒔き続けるように、主が今もわたしたちに語りかけてくださる励ましの言葉です。

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