聖 書
旧約聖書 サムエル記上2章3節 (旧約聖書p430)
福 音 書 マタイによる福音書1章18-25節 (新約聖書p1)
説 教 「恐れるな、神が共にいる」柳谷牧師
主イエスの誕生について~マリアを巡って
ルカによる福音書では、主イエスの誕生について、洗礼者ヨハネの誕生から語りはじめています。それは、主イエスの道を準備する者としての洗礼者ヨハネが、生まれる時からその道を備えていたことを現すためです。
洗礼者ヨハネの母となるエリサベトは子を産むには高齢になっており、最初にそのお告げが彼女の夫で祭司のザカリアに天使を通して告げられると、ザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と答え、子どもが生まれることを信じませんでした。彼は子どもが生まれるまで、沈黙させられたのです。
一方、マリアのところにも天使が来て、神の子を宿している、と告げました。マリアは最初「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えましたが、天使がマリアの親戚で不妊の女と呼ばれているエリサベトも子を宿していることを告げて「神にできないことは何一つない」と言うと「お言葉どおりこの身に成りますように」と受け止めたのでした。
マリアは早速エリサベトの所に行きました。そして、二人で神のお告げのとおりに子どもが生まれることを確かにし、互いに励まし合ったのでした。エリサベトもマリアも神から与えられた使命として子どもが授けられました。神から与えられる使命に、人は恐れ、それを避けたいと思うこともあります。しかし、このような分かち合いによってお互いに励まし合うことができたのでした。
主イエスの誕生~ヨセフを巡って
一方、マリアの婚約者であったヨセフについてはどうでしょうか。マタイによる福音書はヨセフに注目します。ヨセフがどこまでマリアから聞いていたのかは明らかではありませんが、少なくともマリアが子どもを宿している、ということを知りました。まだ二人が一緒になる前に「聖霊によって身ごもっていることが明らかとなった」(マタイ1:18)のです。恐らくヨセフが知ったのは、マリアが身ごもっている、ということです。周囲の人たちにも明らかになっていたことでしょう。誰もがマリアのお腹の中の子はヨセフとの間の子である、と思っていたことでしょう。しかし、当のヨセフは自分に身に覚えがないことを知っています。マリアが自分以外の男性の子を宿しているのだとすると、それが公になればマリアは姦淫の罪でとらえられ、石で打ち殺されてしまうかもしれません(申命記22:22-29)。マリアにとってヨセフよりも他に好きな人がいるのであれば、ヨセフは密かに婚約を解消し、マリアが姦淫の罪で殺されないように、と願ったのです。
ヨセフには相談する相手がいませんでした。ただ孤独のうちに悶々としていたのでしょう。マリアのお腹の中の子の父親は誰だろうか、と思い悩んでいたのではないかと思います。
そして、一人で思い悩みながら、マリアとの縁を切ろう、と決断したのです。
そのような時に天使が現れて言います。
「マリアのお腹の中の子どもは聖霊によって宿ったのだ」というのです。さらに、その生まれる子どもが、人々を罪から救う者になる、というのです。イエスという名をつけるように言われています。これは、「神は救う」という意味で、旧約聖書ではヨシュアとかホセアとして登場する名前と一緒です。当時のユダヤでは一般的な名前でしたが、その名前が現すとおり、神の民を罪から救うのだ、と言われました。それは、イザヤの預言の成就だ、とあります。
聖霊によって宿った、というのは、神様のご計画の中で宿ったのだ、ということです。ヨセフは、マリアのお腹の子が神様のご計画の中で生まれるのだ、と信じました。イザヤの預言においても、その名はインマヌエルと呼ばれる、とあります。そのとおり、主イエスは「神は我々と共におられる」ことを現す救い主です。
そして、このヨセフがまず主イエスによって救われた一人となったのです。
神は我々と共に~インマヌエル
ヨセフは、最初はマリアと関係を切ろうとしていました。それは自分の思い込みであり、人間としては最大限考え抜いた結果だったことでしょう。
しかし、神のご計画は違いました。ヨセフにマリアを受け入れるように語り、ヨセフとマリアと主イエスがまず神の家族となることでした。「聖霊によって宿った子ども」を受け入れることで、ヨセフは神が共にいてくださることを信じました。すなわち、ヨセフにとって受け入れがたいような事実においても、神のご計画があることを知り、マリアを受け入れました。ヨセフは主イエスの誕生の場面にしか登場しませんが、ヘロデに追われエジプトまで旅をする、という時にもヨセフは大きな役割を果たしました(マタイ2:13-15)。
キリスト教の世界では、マリアとヨセフと主イエスを「聖家族」と呼んだりします。またこれを家族のモデルだと言う人もいます。それは、父、母、子がいて完全な家族だ、ということではありません。主イエスとヨセフは血筋では繋がっていません。しかし、血のつながりのない者でも、信仰によって、神のご計画の中にあると信じる者たちが家族となる、というモデルを現しているのです。
主イエスは言われました。
「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:35)
神の御心を行う人たちこそ、神の家族です。
さらに、主イエスは、ヨハネによる福音書の十字架につけられた場面で、母マリアと愛する弟子(ヨハネと考えられている)とを結びつけます。
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26-27)
主イエスの救いは「罪からの救い」です。「罪から救い」が現す具体的なことは、人が共に生きるようになる、ということです。罪に支配されている時、人はその罪を隠そうとし、神から隠れ人から隠れようとします。アダムとエバが知恵の木の実を食べた時に、神から隠れ、また互いに罪を人のせいにしていきます。その罪のゆえに孤立化することもあるでしょう。また、罪ゆえにアダムの子であるカインは、兄弟であるアベルを殺してしまいました。罪ゆえに人は神との関係を失い、人との関係を見失うのです。しかし、主イエスは、人との関係を結ぶことで、私たちの間に救いを実現されます。私たちに主イエスを通して共に生きる力を与えられるのです。
教会は、決して理想的な共同体ではありません。合う人もいますし、合わない人もいることでしょう。しかし、神は主イエスを信じる者全てを救おうとされています。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)
関係(縁)を切る生き方ではなく、共に生きる歩みを通して、人を救いへと招いておられるのです。
その救いにすべての人が招かれています。
主イエスを迎えるとは、その喜びを分かち合うことです。
クリスマスおめでとうございます。