2022年1月23日降誕節第5主日・顕現後第3主日 礼拝説教

聖 書
旧約聖書 申命記30章14節  (旧約p329)
福 音 書  ルカによる福音書17章20~37節 (新約p143)

説 教 「神の国はあなたがたのただ中に」柳谷知之牧師

神の国は近づいた

主イエスの伝道は、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)という宣言から始まりました。神の国に私たちが行くのではなく、神の国が近づいている、と宣言されるのです。
神の国とはどういうことでしょうか。
神の国は、神の支配される領域を現します。当時のユダヤ社会において、神の国は、神が全の人々や国々を支配されるところを意味すると同時に、イスラエルの人々の繁栄や政治的独立を意味していました。すなわち、神の国は、メシアが来て復興するイスラエル王国と重ねられていました。

そのような中で、主イエスは神の国の到来を語ります。
ですから、ユダヤの宗教指導者層であるファリサイ派の人々は、イスラエル王国の復興を待ち望み、その神の国はいつ来るのか、と尋ねたのです。
すると主イエスは、「神の国は、見える形では来ない」と言われ「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。
主イエスが語る「神の国」はファリサイ派の人々が考えていた「神の国」とは異なります。
主イエスが語る「神の国」は、主イエスの働きと関係します。
洗礼者ヨハネが、自分の弟子たちによって「あなたは来るべきメシアか」と主イエスに尋ねたことがありました。その時、主イエスは「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と答えられました(ルカ7:18~23)。主イエスが近づいたと宣言される神の国は、このような世界です。そこでこそ、神が共にいてくださる、という世界が広がっているのです。
それは、確かに目に見える形ではないでしょう。神の国は、人の交わりの中で広がりゆくものだからです。主イエスが来られたことで、神が共にいてくださる世界が示されたのです。どんな時も、たとえ十字架で殺されるようなことが起こるところでも、神は共にいてくださるのです。神に見放されたと思えるようなときにも、神が共にいてくださる、そのようして神の国はあるのです。

神の国の完成に向かって
 主イエスと共に、神の国は近づき、主イエスを信じる者たちの間に広がりはじめました。
教会も、その神の国を現すところです。神がいないと思われる世界に対して、神が共にいてくださることを証し、誰も神の愛から漏れる者がいないことを伝える場です。
しかし、その完成には至っていません。
なぜなら、人間の罪が完全になくなってはいないからです。神に敵対する諸々の力は、まだ完全にその力を失っていないからです。
ですから、聖書は、終わりの日を語ります。神が創造された世界が最後には完成を迎えるのです。
神の国の完成は、新約聖書では終わりの日として現されています。それは主イエスが再び来られる日です。
神の国があなたがたの間にある、と言われながら、その完成の日について主は弟子たちにだけ語り始めます。
それが今日聞いたルカによる福音書17章の22節以下です。
初代教会では、キリストの来臨がすぐである、と信じられていました。パウロも最初は自分が生きている間にキリストは再び来られると信じていました。しかし、なかなかその時は来ませんでした。やがて、終わりの日すなわちキリストの再臨は遅れている、という認識が広まります。神がすべての人が悔い改めるのを待っておられるのだ、と考え、遅くなっていても必ず来る、と信じました。一方、終末が遅くなっているのですから、主の来臨を見ずに死んでしまう信仰者もいるのです。ですから、主の弟子たちに対して「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。あなたがたはその時をみない」(17章22節)と主イエスに言わせています。

終わりの日が近づくとき、再臨の主イエスが「あそこにいる」「ここにいる」と言われるが、出て行くな、ついてくな、と述べられます。ここで人の子は、再臨の主イエスを現しています。また、それは突然やってくるものであることが、ノアの箱舟の洪水の時と重ねられて語られます。その時が来るまで、人は普通の生活をしているのです。

ファリサイ派の人々は、神の国の到来がいつかと尋ねましたが、弟子たちは、どこでそのようなことが起こるのか、尋ねます。主イエスは、ただ「死体のあるところにはげ鷹もあつまるものだ」と言われるだけです。

終わりの日、その日は、とても不吉な日というイメージがここにはあります。また、全ての者がすくわれるのではなく、滅びる者がいることが示されます。二人のうち一人は連れ去られる、というのです。

命を得る道
何が、命を守ることになるのでしょうか。
33節に「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」とあります。
これは、主の十字架のイメージと重ねられます。
神の国の完成は、いつか、またどこかについては、はっきりと分かるものではありません。
大切なことは、神の国は、わたしたちの間に広がりつつある、ということです。
それは、主の十字架の道にならい、自分の十字架を負っていく、という道にあります。
自分の命を捨て、世の理不尽さを負っていく、世の罪を負っていく生き方です。
困難な中でも、恥と思われる中でも、神に示された道を歩むことです。

原始キリスト教会においても、疫病は重要な問題だったと言われています。
多くの人たちは、この疫病に対して逃げ、疫病にかかった人たちを見捨てたとのこと。
しかし、キリスト者は病の者を世話し、助けていったとのことです。
それが、迫害がありながらも、共同体としての教会を広げ、歴史の荒波に耐える力となったのです。
なぜそのようなことができたのか、と考えると、死を超えた命に与っていたからでしょう。
復活の命、永遠の命を信じるからこそ、世の課題を担い、共に生きる共同体を形成していくことができたのです。
主は、神の国はあなたがたの間にある、と言われています。
わたしたちが、世の論理に支配されるのではなく、御言葉によって立ち、御言葉に支配される場が神の国です。
自己責任論や最も小さな者を無視してしまう世の論理があります。福音は、それとは対極にあり、神がすべての人を愛されていること、人が他者と共に生きる世界を告げます。
神の国は、この世においては役に立たないとみなされるとしても、すべての人に生きる意味と価値を与える世界です。
世に捨てられるものであったとしても、神は捨てられたものを用いられる方です。
家造りらが捨てた石を、隅の親石として用いられる神がわたしたちと共にいてくださるのです。
十字架で殺された主イエスを復活させられた神が私たちと共にいてくださるのです。

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