聖 書
旧約聖書 創世記50章20節 (旧約93頁)
新約聖書(使徒書) ヘブライ人への手紙12章7~13節 (新約417頁)
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブライ人への手紙12章11節)
説 教 「平和に満ちた実を結ぶ」 柳谷知之牧師
◆主の鍛錬~神の愛する子であるしるし
本日の聖書では、主の鍛錬が語られています。訓練、トレーニングといってもよいでしょうが、鍛錬というほうが、より厳しい訓練を思い浮かべます。もともとの言葉に即するならば、教育とか、精神修養などの訓練ということになるようです。
このヘブライ書の説教者自身が次のように語っています。
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが」と語っていますので、自分で自分に課すようなトレーニングではなく、他の人から指示を受けて、行う訓練ですし、しかも、最初は喜びよりも悲しみがあるような訓練です。ですから、時には罰も加えられるような訓練、訓練のための罰という意味にもとれます。
先週、わたしは自分が長距離を走っていたことがある、と述べましたが、高校時代は柔道部に入っていました。球技はそれほど得意でなかったのですが、体を鍛えたい、という思いで入部しました。一つ上の先輩に強面な方がいましたし、けんかっ早い同級生がいて、今思えばその中でよくやってたもんだな、と思いますが、理不尽ないじめのような練習はありませんでしたが、夏休みに行った合宿は結構厳しかったです。当時は、水分補給などするような練習ではなかったので、夏は道場が蒸し風呂のようになって、その中で練習した記憶があります。負けたら交代する乱取りがあって、負け続けると最後は立つのもやっとといった状態で伸びてしまいます。すでに卒業した先輩がすいかを差し入れてくれて、カラカラに渇いたのどと空腹の中で、大玉のすいかの半分を一人で食べた記憶があります。
それから、今思えば、父親はずいぶん鍛錬してくれたのではないか、と思います。罰則はなかったのですが、夏休みの宿題で、絵を描く、書道をする、作文を書く、といったときに、よくダメだしされました。うまくできないと怒られた記憶もあります。小学生までは父親が怖かったことを思い出します。
この聖書を聞きながら、そんなことを思い起こします。
そして、そういう経験をして、あの訓練は厳しかったけれども、いい経験だった、と思う人にとっては、この聖書はなるほど、と思えるものでしょう。あるいは、その訓練は、確かになんらかの目的に導くものであった、成果があったと思えるならば救われます。
わたしも、大人になってから父親に愛されてきたことは間違いないと思いますし、尊敬もしています。
厳しい鍛錬を受けるのは、子であるしるしとして解釈されます。
しかし、大学生になって、自分は結構自己肯定感が低いな、と感じた時に、幼少期の厳しい訓練のせいではないか、と思ったりもしました。父親がOKを出さないとだめだ、という刷り込みがあったからです。
そういう意味では、ここで「肉の父は、自分の思うままに鍛えてくれました」(10節)とあるように、人間の父は、完璧ではないのです。英語の訳では、「自分自身の喜びのために鍛えました」と解するものもあります。自分の思うところに従うのか、もっと大きな喜びのために、目的のためになされるのか、が神の鍛錬との大きな違いなのです。神が与える鍛錬は、必ず益をもたらすのです。何よりも神が子として愛してくださっているからです。そして、ご自分の聖性にあずからせるために鍛えられるのです(10節)。
◆神の聖性にあずかる
では、神の聖性にあずかるとはどんなことでしょう。
すなわち、神の神聖さ、聖性が私たちに分かち合われるのです。
それは、神の似姿、神の像にかたどって造られた人間(創世記1:27)であることと関係します。
神は全能で、超越的であり、愛と義に満ちておられる方です。
最も小さな者に憐れみをかけ、苦しみの中にある人々を救われる方です。
そして、人々が神を愛し、また互いに愛し合うことを望んでおられます。
このような神にかたどって私たちが造られたのです。
ですから、その神に近づくように、神の似姿が完成するように、鍛えられるのです。
◆平和に満ちた実を結ぶ
そして、その鍛錬は、やがて義という平和に満ちた実を結ばせるのです(11節)。
神の鍛錬は厳しいものがある、というのは苦難の一つのとらえ方です。それがすべてに適用できるかどうかはわかりません。しかし、聖書は様々なモデルを用意しているのです。
例えば、今日ご一緒に聞いたヨセフの言葉です。
ヨセフは12人の兄弟の11番目でした。父であるヤコブはこのヨセフを溺愛していました。
ヨセフは小さい頃から夢のお告げを受けていました。
ある時、自分に向かって父も兄弟たちもひれ伏すだろう、という意味の夢を見て、それを兄弟や父親に語りました。兄たちは、そのヨセフを妬み、反感を覚えました。ある時、羊を飼う兄たちにヨセフが父から遣わされたとき、兄たちは考えました。「夢見るお方がやってくる。あれを殺して、穴の一つに投げ込んでしまおう。あれの夢はどうなるだろう」と。ただし、長兄のルベンは「殺してはならない」と言って、荒れ野の穴に放り込みました。
そして、結果的には、ヨセフは奴隷としてエジプトに売られたのです。
そこでヨセフは、ある人に仕えましたが、その女主人に嵌められて、牢につながれることになりました。しかし、彼の夢のお告げが功を奏し、彼はやがて大臣にまで上り詰めます。彼の夢は、エジプト一帯を飢饉から救うことになったのです。そして、カナン地方にいた彼の家族もエジプトの食料を頼りにエジプトにやってきました。そして、紆余曲折はありましたが、ヨセフの家族はエジプトで暮らすようになり、父ヤコブはエジプトの地でなくなりました。
父親が亡くなって、兄弟たちは、ヨセフが自分たちに復讐するのではないか、と恐れます。
そこで、ヨセフが今日の言葉を兄弟たちに告げたのです。
その前から見るとヨセフはこう言っています。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたがわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世記50:19,20)と。
この言葉は、ヨセフが兄弟たちに自分の身を明かしたときにも語っています。
「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。しかし、今はわたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(創世記45:4~6)
ヨセフは自分の身に起こった出来事を神の鍛錬とは考えていませんが、自分の身に起こった不幸とも思える出来事を誰のせいにするのでもなく、神のご計画のためであった、と捉えなおしています。そして、兄弟たちを赦すのです。
この和解の出来事こそ神が望まれることです。
最も大きな出来事は、主イエスの十字架にあります。
主イエスは、律法学者やファリサイ派などの妬みや、「社会の秩序を守らねばならない」という思いのために捕らえられ、拷問を受け、十字架によって殺されました。しかし、それは神のご計画であったのです。神が私たちの罪を赦されるためでした。
神の聖性に与るとは、神の赦しに与ることでもあります。
神が独り子イエスの死を通して、わたしたち人間との間に和解をもたらしているのです。その神の赦しの大きさにわたしたちが参与することです。
そして、それが平和をもたらす力になるのです。
◆赦しについて
赦しということで思い起こすことがいくつかあります。
一つは、水俣病患者の緒方正実さんという方のことです。水俣資料館には彼の次のような言葉が記されています。「水俣病失ったことがたくさんありますが、人として生きる上で一番大切なことを学ぶことできました。」
この方は、公害を起こしたチッソを「赦す」といい、また水俣病認定に関わった行政の人たちの差別を「赦す」と言ってきた人です。
そこで、緒方さんは次のように語っています。
「『赦す』と言う言葉は、すべてを赦し、何でも受け入れるという意味ではありません。対立の壁を低くして、間違っているところはきちんと指摘するという対等な位置に着くことを意味します」と。緒方さんは、「赦し」は、話し合いの場を作りやすくする為であり、闘いを放棄する後ろ向きするのではなく、将来を築く為に、前向きするために用いているのだと思います。
また、今放映されているNHKの大河ドラマで紫式部とやがて呼ばれる主人公「まひろ」が、母親を殺した相手に対して、琵琶を演奏するという場面がありました。赦せない、という気持ちがあった彼女でしたが、これ以上、あの人に自分の心を乱されないように、区切りをつけた、という意味の言葉がありました。「赦す」というのは、自分の心の平安のためでもあるのです。
もっとも、だから何が何でも赦しなさい、という命令ではありません。ただ、苦難に意味づけが与えられるならば、わたしたちは救われる、平安にそして平和に生きる道が見えてくるのではないでしょうか。
苦難の中にこそ、神の聖性への招きがあるのです。