旧約聖書 エゼキエル書37章14節 (旧約p1357)
使 徒 書 使徒言行録2章1~13節 (新約p214)
説 教 「キリストの霊に生かされる」
聖霊の約束と働き
ペンテコステおめでとうございます。主イエスの弟子たちに聖霊が下り、弟子たちは主イエスの福音を全世界に向けて語り始めました。ペンテコステというの言葉自体は五旬節という意味で、ユダヤ人たちにとっては過越しの祭りから50日、わたしたちキリスト者にとっては、イースターから50日を数えます。
主イエスは、復活された後、40日間弟子たちと共に過ごされまして、天に昇られました。神の右に座しておられるのです。主イエスの姿は、目には見えなくなりましたが、生きて、今もわたしたちと共にいてくださいます。そして、主イエスが共にいてくださるしるしとして、弟子たちに聖霊を与えてくださる約束をされたのです。
聖霊を与えてくださるという約束は、ルカによる福音書に続く使徒言行録およびヨハネによる福音書で見ることができます。
どのような約束か、少し見ます。
復活された主イエスは、弟子たちに言われました。「エルサレムに留まって、父の約束されたものを待ちなさい。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と。(使徒1:4,5)聖霊を受けると、弟子たちは力が与えられ、主イエスの福音の証人となるのです。
また、主イエスは、十字架につけられる前に弟子たちに言われました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(ヨハネ14:16、17)と。
主イエスは、聖霊によってわたしたちをみなしごにはせず、共にいてくださるのです。また、その聖霊は、真理を教え、主イエスの出来事、十字架と復活の福音を思い起こさせるのです。
弟子たちが聖霊を受ける~神の言葉としての聖霊
そのような聖霊が降る、という約束を弟子たちは主イエスから聞き、そして、エルサレムに留まり、一同心を一つにして待っていたのです。
五旬祭の日でした。主イエスが復活されて五十日目、天に昇られてから十日目でした。
激しい風が吹くような音が天から聞こえてきて、弟子たちがいた家中に響きました。
炎のような舌が分かれ分かれになって一人一人の上にとどまったのです。
霊というと、何か見えない不思議な存在として考えられるかもしれません。幽霊や、肉体に対して霊ということが言われるからです。
しかし、聖書が語る聖霊は、ここでは「舌」です。これは、「言葉」を現しています。ですから、弟子たちは語り始めます。
主イエスは、かつてこう弟子たちに語られました。
「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコ13:11)
パウロは、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。(コリント12:3)と述べています。
ペンテコステの時に、弟子たちに降った聖霊は、何を語るべきか教える霊です。主イエスこそ救い主であることを語る霊です。
霊に満たされて他の国々の言葉で語り始める~自分の言葉ではなく
聖霊に満たされた弟子たちは、他の国々の言葉で話しだしました。聖霊を受けて、他の国々の言葉、外国の言葉を話すことができる、というのは、なんと素晴らしいことでしょう。語学を学ぶ必要はなく聖霊を受ければよい、ということでしょうか。
ここで語られている他の国々の言葉というのは、「別の舌」すなわち「別の言葉」ということです。それは「自分の舌」ではない、ということです。「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」と言われるように、聖霊に導かれ、自分の言葉ではない別の言葉を話し出したのです。
主イエスの福音を語ろうとするときに、証という形をとることがあります。個々人が自分に与えられた主イエス・キリストの出来事を語ったりします。個人的な体験、信仰を持った喜びや不思議さが語られます。すさまじい体験の末に、神様と出会う、主イエスと出会うことがあります。しかし、大切なことは、自分のことが中心になるのではなく、神さまを証することです。主イエスを証することが中心となるのです。もしかすると、私たちは自分を知ってほしい、と願うことがあります。誰かに自分のことを知ってほしい、と。また、何かを表現するときには、自分の言葉で話しなさい、と言われます。借り物の言葉ではなく、自分の言葉を話す、ということが求められます。自分の存在に根ざした言葉ということは大切ですが、自分のオリジナルということにこだわったり、自分ということが中心になると、それはどこか違うものとなっていきます。み言葉を取り次ぐという場合の説教においても、個人的なことやオリジナルなアイデアを話してしまって、み言葉からそれてしまうということがあります。
そのような「自分の言葉」ではなく、聖霊が示すままに語るのです。それは、自分を捨てる、ということにもなるでしょう。何を伝えるのか、ということなります。
いま、NHKの朝の連続テレビ小説で、古関裕而という作曲家をモデルにした物語があります。独学で西洋音楽を学び、当時日本人で初めて国際作曲コンクールで入賞もしている人です。阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」や、高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」などを作曲した人です。ドラマでは、主人公の作曲家が、レコード会社に雇われますが、1年以上も曲が採用されません。自分らしい曲をつくろう、西洋音楽を学んだ成果を見せたい、と頑張りますが、それが、「鼻につく」と言われ却下され続けます。そして「才能のある人に限って、自分を捨てられない」とまで言われます。その彼が、自分を捨てるのは、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」を作曲してからでした。
聖霊に導かれて話すことも、そうしたことに似ているように思えます。主イエスが私たちの救い主であることを語られる場合にも、その人でなければ語れない言葉と同時に、自己中心ではないのです。
他の国々の言葉で話す
弟子たちが聖霊に満たされたときは、ユダヤ社会でも五旬節すなわち七週の祭りの時でした。
ユダヤ教では、出エジプトの50日目に十戒を授かったことを記念して祝われる日です。ですから、大勢の人々がエルサレムの神殿に集まってきていました。ユダヤ地方に住む人たちだけでなく、外国からもユダヤ教を信じる人々が来たのです。それは、かつてバビロン捕囚などで散り散りにされたユダヤ人たちの子孫が中心でした。バビロニア(現在のイラク)やエジプトのアレキサンドリアやエチオピアそしてヨーロッパの各地からも人々は集まってきていたのでした。
弟子たちが語る言葉を、彼らは理解し、驚き怪しんで言いました。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」
ガリラヤの無学な人々、この世においては取るに足りないと思われているような人々によって、主イエスの出来事は伝えられてきたのです。
教会の誕生日としてのペンテコステ
主イエスの弟子たちは、当時の社会から見ると、はみ出し者だった、と言えます。世の中での信用がある人たちではありません。外国の言葉に堪能であったわけではありません。しかし、聖霊を受け、力を受けて、人々に伝え始めました。その働きがユダヤ全土にやがてアフリカ、ヨーロッパに広がっていきました。さらにそれは時代を経て、この私たちにも伝えられてきたのです。歴史に名を遺した人もいますが、多くは歴史的には無名の人たちによって担われてきました。直接的に、福音を語る人もいれば、生き方を通して、またさまざまな業を通して、主イエスがわたしたちと共にいること、罪を赦し新しい生き方、永遠の命を伝えてきたのです。
命の危険を冒して、伝えられてきました。
ペンテコステは教会の誕生日とされています。
私たちは、聖霊の働きを知るとともに、教会が何を大事にするのかを知ります。
教会が自分中心ではなく、主イエスを中心とする、ということは言葉の上では当たり前ですが、聖霊の働きがあることを信じる、というのは難しいものです。
それほどまでに、わたしたちは自分にこだわり、神さまにゆだねるよりも、自分を頼りにしてしまうものなのです。
聖霊が導くこと
改めて、聖霊が導くことを考えてみます。
聖書から、聖霊について、次のように聞くことができます。
- 洗礼を授ける力。
主イエスは火と聖霊によって洗礼を授ける。(マタイ3:11、マルコ1:8、ルカ3:16)
洗礼は父と子と聖霊の名によって授けられる(マタイ28:19)
- 最高の贈り物である。
「また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:12-13)
- 聖霊を冒涜する者は赦されない。(神の働きを認めないことは、救われることはない)
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3:28,29、他マタイ12:32、ルカ12:10を参照)
- 聖霊が語るべきことを与える。真理の霊。
「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコ13:11)
他にも、パウロも聖霊の働きを語っています。
聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。(コリント12:3)
聖霊はあなたをとらえている
わたしは聖霊を受けてるのだろうか、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。誰も、最初から主イエス・キリストを救い主と告白することはありません。最初からキリスト者であった人は誰もいないからです。しかし、わたしたちが主イエス・キリストに導かれてきたこと、その不思議さに気づかされます。出会いの不思議さがあります。そして、それぞれの心にみ言葉が植えられているのです。そこに聖霊が働いているのです。その聖霊はわたしたちの中に、神の言葉として留まります。それが、主イエスが、わたしたちと共にいてくださるしるしです。聖霊に導かれて、わたしたちは主のために、何を語るのか、何をなすのかを示されます。そして、わたしたちが確信を失う時も、聖霊がわたしたちに神の出来事となるみ言葉を示し、主イエスにあって新しい道を示すのです。
その聖霊は、聖書から次のもので象徴されます。炎(赤)、風、鳩です。そこにあるのは、熱い燃えるような思い、自由な神の働き、人の思いをはるかに超えた働きです。そのような聖霊を信じるものだけが、神の働きを心にとめることができるのです。逆に、神の働きを信じているのでしたら、すでにあなたのうちに聖霊は留まっているのです。