聖 書
旧約聖書 アモス書8章1-3節 (旧約p1439)
福 音 書 ルカによる福音書8章16~18節(新約聖書p118)
説 教 「覆いが取りのぞかれる時」 柳谷知之牧師
ともし火の役割
主イエスは言われます。
「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりするひとはいない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く。」
ともし火は、世を照らす光です。それは闇の世界における福音を表します。
ともし火をともして、誰もそれを覆い隠そうとはしません。明かりが必要なところにおくのです。
しかし、わたしたちは、何が本当の光なのか、それさえも見えなくなっているのかもしれません。
経済的に豊かになれば、世の闇はなくなるのか、というとそうではない現実をつきつけられています。
いじめ社会などと言われ、社会的にモラルが低下しているという中で、学校教育の道徳の問題があげられ、心のノートや道徳の点数化が言われたりしていますが、そのような上からの教育によって、モラルの低下を防ごうとすることも、何か嘘くさいものを感じさせられます。なぜなら、政治家そのもののモラルが低下していることを目の当たりにするからです。
世の闇について
主イエスの時代から2000年が過ぎた今も、私たちの世界は闇で覆われているかのようです。人は、光を求めています。闇に打ち勝つ力を求めています。
一方、わたしたちは、その闇の正体をなかなかつかめません。
心が渇きを覚えます。生活の土台が崩れます。今年は特にコロナウィルスのことで生活が一変しました。経済活動との両立が求められている一方で、これという対策がなかなかなされません。ウィルスの被害だけでなく、それをめぐって様々な中傷もあります。ソーシャルディスタンスの中で、人恋しくなる人がいるかと思えば、ステイホームで密になりすぎた家族に歪みが生じている場合もあるようです。
明らかな政治の腐敗がありながら、それを追求しきれないでいるところもあります。
理不尽な死や災害などにおびえる日々もあります。
その闇の根本にはなにがあるのか。
聖書は、その闇を罪と語ります。罪とは神の御心から離れてしまうことです。また、神によって生かされていることを見失うことです。罪は、エゴイズムという形であらわれることもあります。また、自己卑下という形でも現れます。生かされていることを知らないために、人は自己中心的になります。また、反対に自分など何の価値もないとあきらめてしまうのです。
主イエスが生きた当時のユダヤ社会では律法主義がありました。
律法を守れば救われる、律法を守ることができるのは、神からの祝福を受けている証拠だ、という考え方です。しかし、その考えが差別を生み出しました。障害を持った人や、貧しい人は、神から祝福されていない不幸な人だ、と思われました。また、律法を守ることができないのは、神の祝福を受けていないしるしだ、とレッテルを貼られ、交わりから遠ざけられました。
今の世においては、それは自己責任論という考えに現れます。彼が貧しいのは彼の努力が足りないからだ、障がい者が貧しいのは彼らの努力が足りないからだ、という考えになるのです。他の社会的責任が問われることがなくなるのです。
そのような考えが、人を死に追いやるのです。
物理的な死もそうですし、自分のことで精一杯になってしまう、という精神的な死にも至ります。
恵みという光
その中で、主イエスは、「わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われました。
それは主イエスが、あらゆる死に勝利し、世の闇に打ち勝ったことを表しています。
逆説的にも主の死が、福音を告げ知らせます。その福音は、神の恵みによって人は生き、世界は成り立っていることを語ります。人間の思いや計算を超えた神の恵みの世界を語るのです。すなわち人間の計算では成り立たない世界についてです。
人間の計算は、善いことをすればよい結果を生み、悪いことをすれば、悪い結果になる、というものです。よく働けば報いが得られ、よく働かなければ悪い報いを得るという価値観です。「働かざる者、食うべからず」という言葉がありますが、確かに誰でも自分で働いて生活に必要な糧を得るべきだ、それが当たり前だ、と考えます。しかし、病気や障害や様々な理由で働けなくなった人たちがいます。そうした人たちにこの原理を適用できるでしょうか。そこで、命の問題は、労働できるかどうかによらなくなります。人間が全うだと思う原理原則だけでは行き詰まってしまうことがあるのです。
一方、福音は、本来罪に定められるべきものが、神の恵み、神の憐みのゆえに赦されているという知らせです。もともと神に敵対しているものが、恵みによって神の子とされるということです。
恵みや祝福について、通常は次のように考えられます。自分に善いことがあったら恵みだ、と。
ある牧師は、自分の還暦の誕生を祝う会の時に、近くの焼き鳥屋さんから思いがけず日本酒をいただいて、恵みとはこういうものだ、と書いていました。たしかに、自分の努力以外のところから、贈り物が与えられるというのは、とてもうれしいことで、それを当然だ、とは思わないはずです。ありがたいと思って受け取るしかないものです。
しかし、聖書が語る恵みは、最初からわたしたちが感じる良い物で満ちているわけでないように感じています。
その最たるところは、主イエスの十字架です。
弟子たちにとって、十字架は取り返しのつかない絶望の出来事でした。弟子たちにとって主イエスと過ごした三年間が全くの無駄になってしまった、と感じられる出来事でした。弟子たちは、主イエスについていけば、やがてイスラエルにおいて偉くなれる、という期待も持っている者たちもいました。その思いが主の十字架によって終わってしまったのです。しかし、その弟子たちを復活された主イエスが救ったのです。聖書の復活の場面を見ると、弟子たちにとって最悪の状態において復活された主イエスが登場しています。
そのようにして主は、闇の中の光を示されました。そして、十字架は、主イエスを信じる者にとって、神の恵みの出来事となっていくのです。
そして、主イエスの十字架が絶望ではなく、神の愛のしるしであることを信じた弟子たちは、たとえ逆境におかれたとしても、主の福音を宣べ伝えていったのです。また、その福音が、ユダヤの社会だけでなく、ローマ帝国が支配する社会の中に広がっていったのでした。
福音の光がもたらすもの
具体的に福音によって示されることがいくつかあります。
まず、私たちに与えられている命、私たちの存在は、自分の意思や成果で獲得したものではなく、全くの贈り物である、ということです。誰一人として、自分だけで生きてきた人はいないからです。恵みによって生かされていることを知るとき、自分の存在を過度にアピールする必要はありません。逆に自分の存在を卑下する必要もありません。ありのままに、自然に立つことができます。また、他者の存在や命も同じように贈り物としてとらえるならば、赦しや愛に導かれるでしょう。どのような人も神の前で平等であることが分かります。それゆえに、抑圧から解放される力が与えられるのです。
また、神の恵みが、私たちの思いを超えているとすれば、現実がどんなに苛酷であっても、希望をもって生きる事ができます。
パウロは、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8章35節以下)
そして、そのような神の愛を信じるならば、希望をもって生きる事ができるのです。
私たちには光が与えられている
世の闇において、以上のような、愛や希望といった光は隠されています。しかし、それらが決して隠されたまま終わることはありません。必ず明らかにされるのです。
そして、わたしたちは神の言葉をどう聞くかに注意しなければなりません。それを律法主義のように聞いたり、道徳として聞くのか、それとも恵みの言葉として聞くのか、神の愛の言葉として聞くか、ということです。
これは、世に起こる出来事をどう読むのか、何を見るのか、ということにも関わります。本日は、アモス書の一部をご一緒に聴きました。ここに、アモスという預言者から、夏の果物を見る中で、神が下そうとしている裁き(イスラエルの最後)を見ます。何の変哲もない果物に、アモスはイスラエルの終わりが近いことを示されたのですが、それは神がイスラエルを愛していないからではなく、むしろ愛するがゆえの裁きです。
どう聞くのか、何を見るのか、自分だけでは分からないことが多々あります。
だからこそ、共にみ言葉を聞くのです。
そして、十字架さえも恵みの出来事であることを知るものは、パウロのように、キリストの愛から引き離すことができるものは何もないことを確信できます。あらゆる苦難の中にも、神の愛を豊かに見出すことができるのです。その意味で、持てるもの、すなわち信じる者は、ますます与えられるのです。
わたしたちには、神の愛という光が注がれています。その光を、この世界は見たがっているのです。隠れている光を明らかにすること、そこに私たちの使命があります。