2021年1月24日 礼拝説教

旧約聖書  列王記下2章9節 (旧約p578)

福 音 書 ルカによる福音書9章43節b~45節 (新約p123)

説 教 「怖くて尋ねられないこと」

主イエスの死の予告

主イエスは、子どもから悪霊を追い出されました。主イエスの周りに集まってきていた群衆たちは神の偉大さに心を打たれていました。

そのような時に、主イエスは、ご自分の死を予告されます。

「この言葉をよく耳に入れておきなさい」とはじめに言われ、注意を促されます。

「人の子は、人々の手に引き渡されようとしている」と。

この言葉を覚えておきなさい、と言われたとき、主イエスは、多くの人々の心を動かす人物でした。悪霊を追い出し、病をいやし、みなが驚きをもって迎え、また中には、この人こそ待ち望んでいたメシアではないか、と思うような人々もいたことでしょう。

弟子たちの誰もが主イエスの奇跡や言葉に驚きつつも、この人の後についていけば安泰だ、と思っていたことでしょう。

そのようなときに、主イエスはご自分の受難の予告をされたのです。

「人の子」とは、主イエスがご自分を指して言われる時の言葉です。
「人の子」が人々の手に引き渡されようとしている、と。
これだけでしたら、何の事だろう、と思うでしょう。
しかし、主イエスの受難予告はこれで2回目だったのです。
最初に、ルカによる福音書では9章21節以下です。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と。この時は、ペトロが、主イエスが「神からのメシアです」(ルカ9:20 )と言った直後でした。
弟子たちが、主イエスのことをメシアだ、と告白した後に、この受難予告をされています。
主イエスは、そこでメシアがこの世の王になるのではなく、どのような最後を迎えるのか、ということを示されたのです。
しかし、この主イエスの発言について、弟子たちは理解できませんでした。
すなわち、なぜ、偉大なる師であり「神からのメシア」である主イエスが人々に引き渡され、苦しまなければならないのか、理解できなかったのです。メシア(救い主)は、ユダヤ社会を救うために、王座につかなければならない、と考えていたことでしょう。奇跡的な力を発揮して、ローマ帝国を追い払い、おごり高ぶった宗教指導者や政治や経済をつかさどる者たちの権益を奪うものだと考えていました。

そのメシアが殺されてしまう、そのようなことがあってよいだろうか。
その意味はなんだろうか、と感じたことでしょう。
最初の予告は、殺された後復活する、とありました。今回の二番目の予告には、復活がありません。
弟子たちは、本当は主イエスに確かめたかったに違いありません。しかし、メシアが殺される、ということは恐ろしいことです。その後、弟子たちだってどうなるか分かりません。このまま主イエスに従って行ってよいものだろうか、不安もおこったことでしょう。主イエスのこと、自分たちのことを詳しく尋ねることを恐れてしまいました。

主イエスの受難に示されること
 このような弟子たちの姿とわたしたちとは無縁なのでしょうか。
弟子たちは、確かに主イエスに従いました。漁師だったペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、網を捨て従いました。自分を捨てて従ったかに見えます。しかし、どこかで自分の思いを捨てきれていませんでした。このあとすぐに、誰が自分たちの中で偉いのか、といった議論をしてしまいます。また、主イエスと最後の晩餐をした後にも、同じような議論をしてしまいました。ルカにはありませんが、マルコでは主イエスが三度目に受難の予告をした直後、ヤコブとヨハネが、主イエスが栄光を受けるときに、自分たちを偉くしてください、と願う場面もあります。どこかで自分を捨てきれていないところがあります。
これを、聖書の注解などでは、弟子たちの無理解と述べているのですが、福音書は、受難に向かう主イエスと、その意味を理解できず、上へ上へと向かおうとする弟子たちの対比を描いています。
主イエスが十字架の道を歩まれた、というのは、私たちの中にある自我を捨てる道を示されている、と考えることができます。捨てる道が、復活につながる道になることを示されています。救いとは、私たちが自我に捉われない道ではないでしょうか。主イエスは、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:24)と言われています。わたしたちが主のために自分を捨てないと救われないということがあります。
そこで、あらためて主イエスが十字架に主イエスに従う、ということ、神を信じる、ということは、どういうことだろうか、と考えさせられます。

主に従う
 弟子たちは主イエスに期待して従いました。しかし、どこかで自分の願望も捨てきれないところがありました。また、主イエスがこの世界を全く新しくしてくれる、と自分が変わらないままで望んでいました。
しかし、主の十字架の道、受難の道は、私たち自身に変わることを求めています。変わるということは、自分自身になる、ということです。世の価値観や世の知恵のために、神に造られた本来のわたしたちが曇らされています。
主に従う、というのは、主にわたしたちをゆだねる、ということですが、それは古い自分を捨てる、ということです。捨てることで新しい自分になります。しかし、それが神に造られた本来の自分自身だと言えます。
また、特にプロテスタント教会では万人司祭といわれます。牧師や教会のリーダーが聖書を解き明かすということで良しとせず、信徒一人一人が、聖書の言葉と向き合い格闘し、不十分であったとしても(十分であるということはどんなときであっても本当は言えないものですが)、自分なりに神と出会い、主イエスと出会うことを大切にしています。

茨木のり子の詩に「寄りかからず」という詩があります。

戦争体験をする中で、できあいの思想、考え方、宗教 権威に寄りかからない、と決めた姿を歌っています。

最後のおちは「寄りかかるのは、それは、椅子の背もたれだけ」と終わるのですが、既成の考えや常識などに頼らないという面が、信仰生活にはあります。プロテスタント教会において、大事にされるのは何よりも自分と神との関係、自分と御言葉との関係だからです。

しかし、別な観点からみると、その態度が自分だけしか信じない、という態度になりかねません。

信仰者として、「寄りかからない」ということは、本当により頼むべきもの以外により頼まない、ということです。すなわち神にのみより頼むということですし、み言葉にのみ信頼するということです。

そして、神は、主イエスを通して私たちにご自身を現されました。わたしたちは主イエスの中に神を見ることができます。そして、主イエスとの出会いは、各自それぞれに違って与えられます。主イエスとの出会いは、み言葉によって、聖書の言葉によって与えられます。その出会いを深めていく時に、自分自身の十字架にも向き合わざるをえないでしょう。そして、主がすべてを負ってくださっている、ということに、わたしたちは慰めを得、また希望をもって生きることができるのです。

 

主に従う道が与えられる

さらにもう少し進むならば、自分で主イエスを信じた、というよりも、主イエスが自分を捉えてくださった、と考えざるを得なくなります。

「わたしがあなたがたを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と主は言われます。「主に従う」ということも、肩に力を入れて言うことではなく、既にわたしたちが主イエスによってえらばれている、というところに従うものです。主の導きが既に働いている、その中で、一人一人が与えられた使命に生きること、それが「主に従う」ということです。

その道がいつも明らかであるとは限りません。紆余曲折し、道を見失うことがあります。だからこそ、日々祈りもとめ、またみ言葉に聴く必要があるのです。「私の思い」を離れて、主の導きにゆだねてまいりましょう。たとえ、それが十字架の道であっても、そこに祝福が待っているのです。

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