2021年4月11日 礼拝説教

聖 書 旧約聖書 イザヤ書65章17節(旧約p1168)

福 音 書 マタイによる福音書28章11~15節 (新約p60)

説 教 「新しいことが起こると」 柳谷知之

歴史的な見方の中で

本日の福音書の箇所は、特別ここに福音(喜びの知らせ)があるとは思われないような箇所です。しかし、キリスト教の成り立ちにおいて、主イエスの復活について、キリスト教外部からどんなことが言われてきたのか、ということを考えさせられる記述です。

マタイによる福音書の27章後半から、そのことが描かれています。すなわち、そこには祭司長たち、ファリサイ派の人たちが、次のようにピラトに言っています。

「人を惑わすあの者(イエス)がまだ生きていたとき、『自分は三日目に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください」(マタイ27:63,64)と。そうしないと、「弟子たちがイエスの遺体を盗み出して『イエスは死者の中から復活した』などと言いふらすかもしれません」と続けたのです。それに対して、ピラトは、あなたたちの番兵を見張らせればいい、と答えました。

主イエスに敵対する人々は、墓を見張ることになりましたが、結果は、天使が現れて墓の石は取り除かれ、空っぽの墓が残っただけでした。そこで番兵たちが祭司長たちに報告したところが、今日の福音書の箇所です。

祭司長たちはそれを聞くと、番兵たちをお金で買収しました。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」と命令しました。真実と異なるこのような話が、今日に至るまでユダヤ人たちの間に広まっている、というのです。

私はここで少し立ち止まります。

祭司長たちがいうように、主イエスは十字架にかけられる前に、ご自分の受難と復活の予告をされました。しかし、それは大勢に向かってなされたのではなく、弟子たちに対して語られたことです。

ですから、ここで祭司長やファリサイ派の人たちが、主イエスが生前復活すると言っていた、ということを気にするようなことはなかったと考えられます。弟子たちでさえ、悲しみのあまり復活のことに思い至ることはありませんでした。また、ルカによる福音書やマルコによる福音書は、この番兵のことを述べてはいません。ですから、少なくともこの部分は、マタイが後から加えた物語である、と考えてよいと思います。

すなわち、マタイによる福音書のこの箇所は、既にユダヤ人たちの間にこの話が広がっていることを前提に書かれたと考えられます。そして、そういう話は広がっているが、それは真実ではない、ということを教会側から弁明する意図をもってこれらの箇所が書かれたのです。

そうするとこの話自体をわたしたちが読む意味はは全く意味がないのでしょうか。

そうではありません。

今日、ユダヤ人たちの間にこの話が広がっている、ということと同じように、私たちの社会でも常識的には、キリストの復活はありえません。主イエスの復活は、古代の科学が発達していない時代だったから信じられたのだ、と考える人もいるのですが、決してそうではありません。死者の復活はどんな時代にとっても驚くべき信じられない奇跡です。世の常識の中で、きっと弟子たちが盗み出したに違いないということを考える人もいます。また、次のような話もあるところで語られていました。イエスは実は双子で、その双子の片割れが、十字架の後、よみがえりのイエスとして現れたのだ、と。あるいは、弟子たち全員が集団催眠にかかったのだ、という人もいます。

これらは、今の世の中の常識の範囲内で復活を理解しようとしたものです。

わたしたちは、自分の常識の範囲で分かるように物事を理解しようとします。

本日の福音書は、そのような私たちの姿を描いたものとして読むことができます。

そして、信仰の世界は、私たちの考えや理解を超えることを信じることになります。ただし、やみくもに、ただまるのみして信じていくのではありません。そのためにも、復活ということで何が現されているのか、何を信じるべきなのか、改めて考えてみたいと思います。

復活の意義

聖書が語るキリストの復活には、次の4つのメッセージが込められています。

第1に、人の命は死では終わらない、ということです。私たちは死で支配されているかのようです。死んだら終わりだ、死んだら意味がない、という考えは根強くあります。しかし、神が与えられた命の中で、無駄な命は何もありません。また、その命は死を越えて、世の中に影響を及ぼしていくことがあります。主イエスは十字架で殺されました。しかし、それだけでしたら、教会もなく、聖書も生まれませんでした。わたしたちがこの場に集められることもなかったのです。教会が主イエスの復活のしるしとなっています。

第2に、主イエスの復活によって、わたしたちもまた復活の命にあやかるのだ、ということです。主イエスの復活を経験して、弟子たちが変わりました。それは、弟子たちもまた一度古い自分に死んだことを意味します。そのようにして人は誰でも新しく生まれることができることを示しています。主イエスが「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)とある通りです。

第3に、主イエスの復活は、体の復活であることに大きな意義があります。魂だけがよみがえるということではありません。人間存在にとって体が大切であることが示されています。また、教会がキリストの体として、神との交わり、人との交わりの場として建てられていることを現します。

最後に、主イエスの復活は、この時だけのものではありません。主イエスの復活によって死が滅ぼされ、私たちも神の国を受け継ぐものとされたのです。今はまだ罪に満ちた世界ですが、この世界が最終的に新しくされるのだ、という信仰に主イエスの復活は関連していくのです。

新しいこととして

 復活は新しいことです。

本日のイザヤ書が 「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と告げるように、新しい天と新しい地が世の終わりに実現するという約束が与えられています。新しい天と新しい地に造り変えられるというイメージの最も大きいものを、黙示録に見ることができます。

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。」(黙示録21:1)と続き、さらに黙示録の22章でキリストの再臨が約束されています。

その新しいことを聞くときに、人間は抵抗します。それによって今まで築き上げたことが崩されることになるからです。本日の福音書の前の箇所マタイの27章の終わりには、祭司長たちは、主イエスが復活したことが広まると「人々は前よりもひどく惑わされることになります」と恐れています。人々が何に惑わされるというのでしょう。人々が惑わされることで、彼らが失うことがあるということです。あるいは、祭司長たちに代表される世の権力者たちは何によって世を治めているのか、ということによります。

一言で言うと、世は、「持つこと」によって支配していると言えます。そして、失うことを恐れさせます。財産や権力や地位、そして命などをなくてはならないものだと思わせます。時には家族や友人関係という人間関係も持つということにいれるかもしれません。近年では、SNSや投稿サイトのフォロワーを競ったり誇ったりすることがあります。自分自身の存在を、見える形で確かめようとすることがこの世界の価値観の中にあります。

しかし、死と復活の新しい知らせは、根本的にわたしたちがこの世で持っているものは何もないのだ、ということを知らせます。神以外に命の源はないですし、私たちのこの地上の生涯が終わったとしても、なお神のもとで与えられる命がある、ということは、わたしたちの恐れを解き放ちます。いつでも古い自分に死に、新しく生きることを促すのです。終わりの日の復活、新しく世界が造られる希望を抱き、今与えられている生を精一杯生きること、そこに主の復活に示された新しい命があるのです。

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