2021年6月13日礼拝説教 

聖 書

旧約聖書 サムエル記上16章14節 (旧約p454)

福 音 書 ルカによる福音書11章24~26節 (新約p129)

説 教 「心を聖霊で満たす」 柳谷知之

悪霊が追い出された後

主イエスは、口が利けない悪霊を追い出されました。追い出された悪霊がどうなるか、今日語られています。

悪霊は、人から出ていくと、人のいない場所をうろつくが、結局、元のところに戻ろうとするのです。元の場所が、きれいになって整えられますので、悪霊はさらに仲間を連れてきれいになっていたところに入り込んでしまうのです。そうなると、人の状態はさらに悪くなってしまいます。

カルト的宗教との関わりの中で

今日の聖書の箇所を聞きながら、次のことを思い起こしています。

わたしは、松本教会に来る前から、当時小諸にあった「いのちの家」というところに関わっていました。そこは滞在型の脱カルト施設で、カルト的な宗教にはまってしまった人が、カウンセリングを受け、社会復帰できるようにする施設です。滞在型というのは、通いではありません。川崎経子先生という牧師が所長として常駐していました。主に、統一協会(現 世界平和統一家庭連合)の被害者が川崎先生と一緒に過ごしながら、統一協会の誤りに気付かされていく場でもありました。

川崎先生の落ち着いたやさしい雰囲気の中で、統一協会の被害者やその家族たちが相談を受ける場所でした。一時期脱カルトの活動は、カルト宗教信者を監禁するという極端な手法をとらさるをえなかったのですが、それは後からいろいろな意味で問題になることが多く、その施設では、出入りは自由ということを心掛けていました。

強引に、無理やりカルト宗教から引き離すと、薄皮のようなものが残ってしまう、とのこと。それがあとあと本人の傷になってしまう、とのことでした。そこで、ゆっくり時間をかけながら本人の話を聞きながら、カルト宗教の矛盾をついていく、という場を持っていたのです。

わたしは、監事だったり世話人の一人として関わり、時々理事会などに出席したり、全国の統一協会等対策の連絡会に顔を出すこともありました。

川崎先生がいつも次のようなことをお話されていました。

「家族の方は、カルト宗教を脱すればそれで解決だ、と思われるけど、そうではないのよ」

「本人には、云い知れない心の穴が生じていることがある。その穴をなんとか埋めないと同じようなことが繰り返されてしまうの」と。

すなわち、カルト宗教にはまってしまうのには、それなりの理由があるとのこと。その理由の根本的なところを解決してあげないと、一つのカルト宗教を辞めても、別の自己啓発セミナーにはまったり、何かの依存症になってしまうことがあるのです。(なお2012年10月に、川崎先生が突然天に召されたことをきっかけに、「いのちの家」は活動の拠点を小諸から福島県の白河に移しています。そこで、竹迫之(たけさこ いたる)牧師(白河教会)が活動を引き継いでいます。)

カルト的な宗教は、人の心の隙間に付け込んできます。その隙間がカルト的な宗教の極端な教えで満たされるかのような錯覚を受けるのです。実際は、上手に不安をあおり、そのカルト的宗教から離れれば、悪いことがあると脅したりします。一方、中の人たちは大変純粋は人たちで親切ですので、こんな人が嘘をつくはずはない、と思い込んでしまいます。本人は洗脳されたという意識を持ちませんが、自分で考えることができなくなってしまいます。

わたしがこれまで相談を受けた人の中には、家族との関係で寂しくなったりする人、親に迷惑をかけられないと頑張っている人、他人を信じられないけれど、ここ(統一協会)の人たちは本当に信じられる人たちがいると思ったと言う人、死ということをどう受け止めてよいか分からないというような人などがいました。

その宗教を脱することができたとしても、その代わりに満たされるものがないと、また別の何かで心を満たそうとしてしまいます。

何かの依存症の人も、満たされない何かを抱えていて、それが解決しないといつまでも何かに依存しようとしてしまうのです。

ですから、今日の聖書箇所のようなことが言えるのです。

悪霊を追い出した後、きれいにするだけではいけないのです。その後、何でそのきれいな場所を埋めていくのか、が大事です。

心が満たされない要因

さて、私たちも何かに満たされないことがあります。その根本には何があるでしょう。

いろいろと考えることができるでしょうが、次の2つにまとめてみました。

1 一言で言うならば自己否定です。愛が満たされず寂しい思いをします。人から愛された経験が不足して、自分を受け入れられません。そのためあるべき自分を目指しますが、理想と現実のギャップに悩んでしまいます。目標を達成してもまだまだ上を目指してしまいます。人と自分を比較して優越感や劣等感をいだきますが、結局は自分を受け入れることはできません。

2 過去の重荷。過去のトラウマだったり、感情を抑制したことなどから生まれる歪があります。自分の感情を素直に現すことができなくなったり、凝り固まった心が、満たされない要因となります。

何で心を満たすのか

満たされない心を何で満たしたらよいのか。物や人の愛や名誉などで満たすことはできません。心理学的には、自分の感情をほぐしたりいたわったりすることなどが挙げられます。

人が満たされたと感じるのは、自分自身で決めることというよりも、偶発的な出会いによるところが大きいのです。また、思いがけない恵みに気づかされた時です。

人との出会いによって、満たされない気持ちが変えられることがあります。書物との出会いによって変えられることがあります。ただしそのような出会いはいつでも欲しい時に与えられるものではありません。

私は究極的には自分を満たすものは、神の言葉であり、神の出来事であると信じています。

キリスト者になった時にはまだ神を信じているということは、あいまいでした。しかし、聖書の学びを通して、ある言葉が心に大きく響いてきた経験をしました。

一つの言葉に出会うと、その他の言葉も自分に語りかけられたものではないか、というところからスタートできます。その言葉に出会おうと日々み言葉に触れるところに導かれます。

さらに、神学校に入ってから学び始めると、伝統的な聖書の解釈や神学を否定するような学びもします。そのことを通して、聖書が語ることの奥深さを知ることができました。

聖書はこんなもんだ、と自分で判断するよりも、もっと大きく開かれた議論があることに気づかされます。現代ではあまり意味を持たないと思えた旧約の律法の規定の中にも、現代的な意味を見出すことができます。

そのような聖書の世界は、とうてい一人の人の一生では把握できないほどの広がりと奥深さを持ちます。

先ほど挙げた満たされない要因に対しても、聖書は、神の愛と罪の赦しによって人を満たします。

知っていた、分かっていると思っていた聖書の言葉や物語が、ある時違う響きを持つこともあります。そして、これは自分に語られた言葉だ、と気づかされるのです。その時、人は聖霊に満たされます。

今日の旧約聖書は神の霊がさったあと、悪霊がイスラエルの初代の王サウロを襲ったことを伝えます。サウロは慰めを得るためにやがてダビデの竪琴を頼りにします。確かに豊かな音楽は大きな慰めになるでしょう。しかし、サウロは神の言葉で満たされることはありませんでした。そしてダビデを妬み、神に受け入れられることなく死を迎えていきます。

わたしたちは何に満たされるために礼拝に集うのでしょう? 神との関係であり、それを気づかせるみ言葉に満たされるためです。み言葉によって満たされるからこそ、新たな人との関係や社会との関係にも導かれます。

神の言葉であり、神の霊が、わたしたちのすべてを満たしてくれるのです。

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