聖 書
旧約聖書 イザヤ書7章14節 (旧約p1071)
福 音 書 ヨハネによる福音書3章16~21節 (新約p167)
説 教 「神があなたを愛している」柳谷知之牧師
クリスマスを迎えるにあたって
今年は、クリスマスである12月25日が土曜日ですので、その4つ前の日曜日からクリスマスの備えの期間であるアドヴェントがはじまります。一番長いアドヴェント期間であり、一番早くアドヴェントが始まる年です。まだ11月も残すところ3日はあるのに、という思いの中で、先週、クリスマスの案内発送をしている時に、今年は準備が早いな、と感じてしまいました。
幼稚園の先生方にもクリスマスの意味などについてお話しする機会があり、その時に、クリスマスの一番大きなメッセージはなんだろうか、と改めて考えさせられました。
洗礼者ヨハネの誕生やマリアの受胎告知、それ以前からさかのぼれば、イザヤや様々な預言者による救い主(メシア)の誕生予告など、主イエスの誕生に関わる聖書は挙げたらきりがありません。
また、クリスマスは過去に来られたキリストの誕生を祝うという意味だけでなく、再びキリストが来られて、この世を新しく造り替えられる、私たち人間も完全なものとされる、という希望を確認していく時でもあります。その意味で考えると、クリスマスを巡る美しい意義深い物語だけでなく、主イエスのたとえ話(マタイ25章などに示される)や、書簡における主の日についての勧めなどもアドヴェントに読まれる聖書箇所となってきます。そして、結局は聖書全体が何を伝えたいのか、ということと関わるのです。
宗教改革者マルチン・ルターが、「小さな聖書」または「小型の福音」と呼んだ聖句があります。それが、本日皆様とご一緒に聴いたヨハネによる福音書3章16節です。ここに、福音の全体が要約されているのです。すなわち、福音とは「神が私たちを愛していて、その愛は、独り子であるイエスを世に与えたほどである」というのです。「世に与える」とは、「世に引き渡す」ということで「主が十字架に引渡された」ことを暗示しています。また、ルターは、聖書は、イエス・キリストが寝かされている飼い葉桶のようなものだとも語りました。主イエスの誕生の出来事において、天使たちが野宿していた羊飼いたちに現れて「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるだろう」と告げました。聖書はその飼い葉桶のようなものなのです。そこで生まれたばかりの救い主を見ることができる、主イエスと出会うことができる場が聖書です。これらから、主イエスと出会い、神に愛されている自分自身を発見していくことが大事だということになります。なぜなら、神の愛に満たされるならば、わたしたちには他に何もいらないからです。そして、この愛に満たされるなら、満たされた者はその愛の泉となり、世を潤す使命に生きる事になるのです。
神の愛のしるし
けれども、わたしたちはなかなか自分自身が愛されているということを受け止めきれません。「無条件で愛されている」「存在そのものが大切」という言葉には耳を傾けられず、「これができない自分はだめだ」「あれができたらなぁ」「何もしないで生きていて意味があるのだろうか」などと思い悩むのです。また、その目が他人に向けられることもあります。この世界でもときどき生産性がなければ生きている意味がないかのようにつぶやかれることがあります。誰かを「生きている意味がない」とか「生きていてはいけない」とする考えが、大きな事件にまで発展してしまいます。
しかし、聖書は一人一人が存在し生きていることの大切さを語っているのです。
「(イスラエルで忌み嫌われていた)犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。」(コヘレト9:4)とあります。主イエスも「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」(マタイ6:30)と言われ、明日のことを思い煩うことではなく、今を生きることの大切さを語られています。
神の愛を信じることができず、不安を抱えたり、むなしいと思うことが多ければ、なおさら日毎に神の言葉と向き合い、神と出会う必要があります。
神の愛のしるしは、神の言葉にあります。その言葉は、具体的な出来事となった主イエスによって確かにされています。
ヨハネによる福音書の冒頭にあるとおりです。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあります。
神の愛のしるしは、主イエス・キリストであり、そのしるしをわたしたちが受け入れ、確かにしていくことがクリスマスです。そのための備えをしていく期間としてアドヴェントが定められています。
主の来臨にむけて
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ぶ。」とイザヤによって預言された男の子が主イエスの誕生の預言として、イスラエルの人々は何百年も待ち続けました。
主イエスによって確かにされた神の国の完成が、私たちには約束されています。再び主イエスが来られて、私たちも被造物世界もすべてを新しく造り替えてくださるという約束です。すでに二千年が経ちました。原始教会の人々は、その日がすぐに来る、と信じていましたし、パウロも、自分たちは生きていて再臨の主に出会うのだ、と信じ、当時の教会の人々を励ましていました(テサロニケの信徒への手紙一4章13節以下)。迫害があり、命の危険にさらされている時代でした。キリスト者は新しい世界の完成が間近だと信じていましたが、いつまで経っても実現しないので、中には失望する人たちもいました。そこで、教会は、主が終末を遅らせているのは、神がすべての人が救われるのを忍耐して待っておられるからだ(ペトロの手紙二3:9)と考えていきました。そして、神のもとでは、千年は一日のようだ、と言われています。
キリストが来られて神の国が広がりはじめました。しかし、世の闇もまたいっそう暗くなっていきます。黙示録では、世の終わりに向かう世界の姿が描かれています。黙示録が書かれた時代は、ローマ皇帝ネロの迫害が厳しかった時代と重ねられます。黙示録ではローマ帝国がバビロンになぞらえて語られ、バビロンの滅びが告げられています。バビロンに象徴される悪の力、闇の力は、過去の出来事にすぎない、と考えることはできません。その後も、歴史の中で神以外のものを神としてしまいましたし、自分を神のようにふるまう権力者は何度も出現してきました。またそのような権力者を救い主のように歓迎する人々も多かったのです。
現代の私たちにとっても闇の力をひしひしと感じることが多々あります。自然災害のこと、地球環境の問題、戦争や紛争があり人々が殺されていく現実があります。私たちの社会でも、ストレスがたまった人々が無差別に他人の命を奪ったり、事件が絶えません。幼い命が奪われています。日常生活の中でも、仕事のこと、人間関係のこと、耐えられないと思うような出来事が多々あります。誰もが幸せに生きたいと願いつつも、また互いに助け合える社会を、と望みつつも、そのような社会はほど遠いように見えます。
聖書が、主イエスの到来(主の十字架と復活)によって示していることは、死や闇の力の滅びが決定的となったということです。最終的な神の国の完成を目指して世は進んでいるのです。そう思えない現実にあって、主が再び来られるという希望を確かにしていく、そこに私たちが過ごすアドヴェントがあり、クリスマスがあるのです。
神が私たち一人一人を愛してくださっている、そのことを確かにしていきましょう。
先日、ある友人がSNSで「昼下がり。胃ろう交換のためにベッドで処置を待っていると、窓ガラスに映るカーテンが、まるで聖母子像のようで…。」とコメント。右の写真が載せられていて、あっと思いました。だからどうだ、と思われる人もいるかもしれませんが、苦境にある時、それが一つのしるしとなると思います。信仰の目で日常のありふれたものの中に、神の愛のしるしを見ることができるなら幸せではないでしょうか。これも一つの神の出来事だとわたしは信じます。
お一人お一人にとって、意義深いアドヴェントとなりますように。そして、恵み深い希望に満ちるクリスマスを共に迎えましょう。