聖 書
旧約聖書 エレミヤ書36章1~8節 (旧約p1245)
福 音 書 テモテへの手紙二4章6~8節 (新約p394)
説 教 「主を待ち望む」柳谷牧師
聖書が語る裁きの考え方(本日のエレミヤ書より)
最初に今日のエレミヤ書を見ます。エレミヤは紀元前600年ぐらいに活躍した南ユダの預言者です。イスラエル王国はソロモン王の後に南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂します(紀元前930年ごろ)。その後、200年ほど経てイスラエルはアッシリアという国に滅ぼされました(紀元前731年)。残ったユダ王国も新バビロニア帝国の圧力の中でまさに滅びようとしているところでした。エレミヤはバビロニア帝国の圧力を前に、戦うことではなく、降伏しても生き残ることを説きます。いったんエルサレムを離れてバビロンに連れて行かれても、その町で平安に暮らすことを勧めたのでした。それは、ユダ王国の指導者層からみれば、裏切りであり、人々の戦闘意欲を欠く行為でしたので、エレミヤは疎ましく思われ、命を狙われたのです。また、エレミヤの人としての感情は、国が亡びることをよしとしていたわけではありません。エレミヤは涙と共に、嘆きと共に神の言葉を伝えていったのです。そして、ユダが滅ぼされるのは、神の裁きであると語っていたのです。しかし、その滅びは絶対的なものとして語っているのではありませんでした。本日の聖書を見ると、神はユダの家が神様に立ち帰ること、悪の道を捨てて悔い改めることを望んでおられます。神が災いを告げるのは、まずは悔い改めることを望まれてのことなのです。もしユダの民が神に立ち帰るならば、神は彼らの罪と咎を赦されるのです(36:3)。
そのような神の姿は、決してここにだけ現れているのではありません。神は、災いを思い返される神です。イスラエルの民が滅びてよい、と思われているのではありません。バビロン捕囚の時代にも、悪人が滅びるのを悲しみ、悪人が神に立ち帰って生きることを喜ばれる神(エゼキエル33:11)の姿が描かれています。
また、裁きは神が直接下す、というよりも、神に従わない者、神を知らない者が自らに招く災いと言えます。
ヨハネによる福音書では、「信じない者は既に裁かれている」(ヨハネ3:18)とあります。光よりも闇を好むために、暗闇に閉ざされたままになってしまうのです。
エレミヤが弟子のバルクに主の言葉を書き記させましたが、その後どうなったのか、というと、この書き記された言葉をバルクが神殿で読み上げました。するとミカヤという人がそれを役人に告げました。役人たちはその巻物を持ってくるように言い、彼らは大変恐れました。そして、ヨヤキム王に告げたのです。ところがヨヤキム王は、恐れることなくその巻物を暖炉の火にくべて燃やしてしまったのです。神が告げた裁きの知らせにもおののかず、恐れもなく、灰にしてしまったのです。そのように神からの警告に耳を傾けず、ヨヤキンは滅びにいたり、彼に続く王たちもまた滅びへと向かっていったのでした。裁きの言葉を聞いても、悔い改めることがなかったため、自らに裁きを招いてしまったのです。
一方、私たちは裁かれたくない、と思いますが、次のような言葉もあります。
終わりの日の預言としての言葉です。「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者。…だが…彼が現れる日に誰が耐えうるか。彼は精錬する者の日、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し…金や銀のように彼らの汚れを除く」(マラキ書3:1-3)
裁きは、金や銀を精錬するようなものだ、と理解できます。すなわち、裁きによって不純物は取り除かれ、真実なるものが現れるのです。ですから、次のように言うことができます。「裁かれることによって、救われる。」思いがけない出来事、予期せぬことにも私たちは神の裁きだ、罰だ、と思ってしまうことがあるかもしれません。しかし、それは私たちに悔い改めを迫るものです。そのことを通して、私たちが頼りにならぬものを頼りにし、変わりゆくもの、むなしいものを信頼していたことに、身をもって気づかされることになります。そこで何を本物とするのか問われるのです。
「主を待ち望む」というのは、私たちの救いを待ち望むことですが、もしかするとそれは自分自身にも向けられた裁きを待つことでもあるのです。変わりたくない自分もいるでしょう。変えたくない自分もいます。しかし、どこかに変えていただきたい自分がいるのではないでしょうか。パウロのように「わたしは望んでいる善ではなく、望まない悪を行っている」(ローマ7:15)ことに苦しむこともあります。自分ではどうしようもないこと、望まないことをしてしまっている、そう自覚できるならば、そのすべての人が、最後は贖われ罪赦され救われるのです。
私たちが待ち望む救いとは、痛みを伴いつつ、裁きを受けつつのことではないでしょうか。
自分の中に痛みや負い目がある人ほど、大きな救いが待っているのです。
テモテへの手紙より
また、自分は滅びる側なのだろうか、と不安に思われる人もいるかもしれません。わたしの中に本物と言えるものがあるだろうか、と。精錬され不純物が取りのぞかれ、残るものがあるだろうか、と、不安な思いも起こってきます。
パウロがテモテ送った手紙には、自分は神から与えられた務めを誠実に果たし、戦いを戦い抜き、信仰を守り抜いた、と述べられています。世を去るときが近づいているけれども、自分は義の冠を受けるばかりだ、と。
さらに、それは自分だけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰でも(義の冠)が授けられることを語っているのです。
パウロは、自分自身の正しさを主張しているのではありません。
神の赦しの中で、神の恵みの中でしか生きることができない自分自身を発見しているのです。律法を実行することによって救われるのではなく、神の恵みによって救われることを実感しています。そして、自分の力による救いではなく、神からやってくる救いを待つだけなのです。
主を待ち望む
主が来られるのを待ち望むのは、今、飢え渇き、義を求め、平和を求めているからです。また、自分自身の欠けや傷を知るからこそ、救いを待ち望みます。現在が闇の中にあると感じるからこそ、光がすべてを包むことを待ち望むのです。再び主イエスが来られて、この世界のすべてを新しく造りかえてくださることを希望します。
そして、主が約束されるからこそ、「待つ」状態にあっても満たされます。主が共にいてくださるからです。
嘆き悲しむ時、苦しむ時、むなしさを感じさせられるとき、そのすべての時に、主は共にいてくださいます。
わたしたちが主イエスを呼ぶならば、御言葉が開かれ、主イエスの名によって祈るとき、主が共にいてくださることを感じる時が与えられるでしょう。
闇の中に光が見えず、心を閉ざしてしまうとき、次の言葉も想い起こします。
「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同法に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる」(イザヤ58:7-8)。
「主を待ち望む」ことは、じっと黙ってひっそりしている、というよりも、他者と共に生きることと関係します。
欠けていることを埋め合わせるかのようにして他者と共に生きる、ということではありません。
やがて来る「神の国」において、すべてが満たされることを先取りするのです。「神の国」で生きるように今を生きることです。既に満たされた者として、他者と共に生きるのです。人と濃厚接触することは避けられている時代です。しかし、私たちは主にあって深く結び合わされています。どんな人も自分ひとりだけでは生きていくことができません。物理的距離があったとしても、また気づいているかいないかに関わらず、誰かのおかげで生き、誰かと関係をもって生きています。
祈りと御言葉によって、私たちは主と共に生き、他者と共に生きていること、生かされていることに気づかされ、「神の国」を待ち望みます。子どもが生まれる時を楽しみにしながら備えて待つように!