2024年5月26日礼拝説教「証人の群れの豊かさ」

聖 書

旧約聖書 エゼキエル書2章1~6節(旧約1297頁)

新約聖書(使徒書) ヘブライ人への手紙12章1~6節 (新約416頁)
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙12章1節)

説 教  「証人の群れの豊かさ」  柳谷知之牧師

◆賞を得るように走る

以前、信仰生活は、歩くことに例えられる、と読んだことがありました。信仰の歩みと言ったり、この道を歩きとおそう、ということが言われるのです。これは、日本語だけのことではなく、英語でもそのような表現をしている、と注解書や説教などを読んで感じさせられました。もともと欧米での表現が日本語になっているのかもしれません。

一方、本日の聖書箇所では、信仰をもって生きることが、競争に例えられています。

「自分に定められている競争を忍耐づよく走り抜こうではありませんか」(1節)と。

ヘブライ人への手紙だけに特徴的な表現ではなく、パウロの中にもこのように競争に例えた表現を見ることができます。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:13,14)

「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」(Ⅰコリント9:24、25)

「わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには、個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。」(ガラテヤ2:2)

信仰の道は、時には走ることに例えられるのです。それも、賞を得るように、ということです。

皆さんは、競争で走った経験がありますか?

わたしも小学校、中学、高校と、運動会や体育の時間などで走らされた経験があります。

また、小学校高学年ぐらいから、校内マラソン大会といったこともありました。

わたしは、走るのはそんなに得意ではないので、いやいや走っていたことになります。

大学の時にも、研究室対抗で駅伝大会があり、また、宮城県にある新生園というハンセン氏病の療養所の方との交流から松島10キロマラソンに誘われて出たこともありました。社会人になった時にも、三浦半島で行われた駅伝大会に新入社員が引きずり出されたことを思い出します。そうしたときに、長距離のほうがまだ向いている、という感覚が芽生えました。その後、何度か会社の駅伝大会に誘われて出たりしていました。走り仲間ができて、一緒にフルマラソンをいつか走ろう、なんて思って、昼休みには毎日走っていたこともありました。結局はフルマラソンまでは挑戦できず、ハーフマラソンを一度走っただけになりましたが、山中湖を走ったのですが、富士山を見ながら、とても気持ちよく走れたことを思い起こします。競争ではありましたが、自分のペースで走ることができ、景色なども楽しめるので、やはり長距離をゆっくり走る、というほうが自分に合っている、という感じです。(今は、ほとんど運動不足なのでだめでしょうが…)

ただ、それでもやみくもに走るというのではなく、長距離を走るためにも訓練が必要です。節制すること、食事に気をつけること、睡眠をよくとる、とか、日常的なことも大切です。また、ストレッチなどを運動の前後に行うなど体をいたわることも大切です。こうしたことを思い起こしながら、今はほとんど自分の体のケアをしていないな、と顧みます。

そして、それと同じように信仰生活もある、ということです。

◆すべての重荷、罪をかなぐり捨て、忍耐強く

本日のヘブライ書では、信仰の道を走りとおすために、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」(ヘブライ12:1)とあります。

そうして忍耐強く走る(1節)のです。忍耐強く、とありますので、これは長距離をイメージさせられる走りです。

走るためには、重荷を捨て去らねばなりません。また、絡みついてくる罪に躓かないようにしなくてはなりません。パウロはⅠコリントで「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」と述べていますが、競技をする人が自分の欲望を抑えて節制し、目標を目指すように、信仰の道を考えています。

忍耐するということの見本は、主イエスです。

主が、十字架につけられる前に、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と言われたことを思い起こします。

また、十字架上で次のように言われたことも思い起こします。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と。

この主イエスの姿が見本だとすると、こんなことはとてもできるものではない、神の子だからできることだ、と思うようなハードルの高さがあります。

しかし、主イエスはわたしたちの道なのです。それは、わたしたちが歩みやすいように、走りやすいように整えてくださったのです。主は、わたしたちが救われるのは、自分の行いによってではなく、神の憐れみによるもの、神の恵みによるものであることを示されました。

神の憐れみがあれば、あとはわたしたちは何もしなくてもよい、と基本的には言えるのですが、しかし、それで全く何もしないのか、というとそれは神の憐れみに生きていない、ということを示してしまいます。というのも、神の憐れみ、恵みが大きければ大きいほど、それに応えようとするのではないか、と思うのです。

そして、少しでも主に近づけるようになりたい、と思うのではないでしょうか。

ですから、節制やケアが必要であり、訓練が必要なのです。

◆主と共にあるケアと訓練

では、わたしたちにとって、競技者(アスリート)の節制、ケアに相当するものはどんなことでしょうか。

まずは、礼拝です。

ある牧師が言っていました。わたしたちは神の楽器なのだ。楽器は一度調律したらあとはそのままでよい、などということはない。例えば、ギターなど、一生懸命弾くからこそまた毎日弾くからこそ日々調律や調整が必要です。たまにしか弾かないと、とんでもなく狂っていたり、ギターなどではネックが反ったりして根本的な修理が必要になることもあります。その調子を整えること、調整すること、それがわたしたちにとって礼拝です。

この世界を生きれば、必ず理不尽なことがあり、神などいない、と言うほうが当然かもしれません。また、神仏に頼るのではなく、自分しか頼りにならない、と思うこともあるでしょう。

そうした思いや考えを切り替えさせるもの、それが御言葉であり、讃美であり、祈りなのです。また、その中でも特に神が愛されているからこそ、今のわたしたちがある、ということ、世の理不尽なことも私たちの罪のためであることを見なくてはならないと考えるのです。

そして、わたしたちを調整することとして、日々祈ることが挙げられます。日々の生活で神が共にいてくださることを感じること、それは祈ることを通してです。祈りは神との対話と言われています。そして、独りよがりの祈りにならないよう、聖書があります。御言葉に触れるとき、わたしたちは自分自身を振り返り、新しい思いに満たされることがあります。この御言葉を読む、受け止める訓練が必要とされているのです。

さらに、今日の聖書箇所では、訓練についても語られています。

「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭で打たれるからである」(ヘブライ12:6)

この言葉は、現代では虐待につながり、省いてしまいたい言葉、違う言葉にしたいと思わせられる言葉です。

聖書の箴言にも次のようにあります。

「若者を諭すのを控えてはならない。鞭打っても、死ぬことはない。鞭打てば、彼の魂を陰府から救うことになる」(箴言23;13,24)

これは、暴力を明らかに肯定しています。しかし、これらの言葉も比喩なのです。自分の子を鞭打って鍛える親がいた時代の比喩です。しかし、今は別な比喩のほうが受け入れやすいかもしれません。

今の時代でも、当然子どもの手を取り足を取って教える、というよりも、ある程度成長してきたら自分で考えるように促しますし、まずは自分で答えを出すようにさせていきます。それは一つの訓練です。神はそのようにわたしたちがどこまでできるか、見守りつつ自らの手を出さないのではないか、わたしたちに考えさせようとしているのではないか、と思えることがあります。

コヘレトの言葉には次のような言葉があります。

「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ、人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せ造られた、と」(コヘレト7:14)

また、4月終わりに天に召された星野富弘さんのことも思い起こします。

順風満帆に体育教師となった矢先、彼は生徒に鉄棒の見本演技を見せようとして事故で頸椎を骨折、頚髄を損傷し、その後頭から下は全く動かなくなりました。本当に大きな苦しみ、絶望があったことと思います。実際に、その葛藤を書かれています。しかし、不思議なことに出会いがあり、三浦綾子の本などを通して、神と出会い、信仰者として新たな歩みをはじめました。そして、口で描く詩画集は、キリスト者でなくても多くの人たちに感銘を与えています。

神などいない、という罪から逃れ、自分自身の重荷を軽くされていく道が信仰生活です。その道は、自分ひとりで歩いたり、走り抜くものではありません。自分だけの力によるものではありません。主イエスが共にいてくださるのです。時には、主が共に歩き、時には主が前から手を引き、時には後ろから背中を押してくださるのです。それが主の導きです。その主を見上げるとき、また主が用意されたゴール(信仰の完成=神の国)を見るときに、信仰の道を走り抜く力は与えられるのです。
さらに、星野富弘さんのように、これまでの信仰の証人が私たちが進む道を示しているのです。

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