2020年7月12日 礼拝説教

聖 書 旧約聖書 イザヤ55章8,9節 (旧約p1153)
福音書 ルカによる福音書6章37~42節(新約p113)
説  教 「色眼鏡を外しなさい」

『バルトと蕎麦の花』
 古い資料を見ていたら、わたしが長野本郷教会にいたときに信徒のある方から紹介されたエッセー風の小説が見つかりました。童謡「さっちゃん」「おなかのへるうた」の作詞者としても知られる阪田寛夫さんという方の作品です。もとは何かの文芸誌に掲載されていたものですが、単行本化されたのは2017年でした。
阪田寛夫さんは、クリスチャンホームで生まれ育ちました。厳格な倫理的教育を受けました。罪と言えば、たばこ、酒、好色などと教えられ、教会付属の幼稚園の教諭がたばこの常習者だということで解任するかどうか、議論していた、という教会で育ちました。そして自らもクリスチャンは偽善者だ、と裁くようになっていました。道徳的、倫理的な説教にあきあきし、大人になってからは教会生活からは遠ざかっていました。『バルトと蕎麦の花』という小説は、長野県の北の信濃町にある当時信濃村伝道所の礼拝に出席して、そこで聞く影山譲牧師の説教に心慰められ、励まされたことを表しています。

何に元気がでたか、というと、次のように要約されます。

水の中でおぼれているときに、誰かに助けられた、という時に、「私が大声で叫んだから、救われた」と言えるか、という考えもあるが、聖書が語るところの神の助けは人間の努力とは無縁のところにあり、ユズル牧師の説教は「こうしてはならない」「こうしなければならない」というところに力点を置かなかった、というところにあるようでした。ユズル牧師にとって、信仰は倫理ではなく、存在を肯定するものでした。神について、次のような例が出ていました。
―やっと歩き始めた赤ちゃんが、母親と手をつないで散歩に出た。この時手のつなぎ方に二通りある。赤ちゃんの方が、母親の手を固く握っている場合は、転ぶと手を離してしまう。
逆に、お母さんが赤ちゃんの手をやわらかく握っている場合は、赤ちゃんが倒れそうになると、きつく握り直して引き上げてくれる。ゆえに、「私が神さまにおすがりする」と思うのは、いかにも不確実だ。確かなのは、「神さまが手を引いてくれること」の方だ。―

今日の聖書のテーマと思える「人を裁くな」ということも倫理ではありません。「なぜ人を裁いてしまうのか」「どうしたら裁かなくてもよいのか」「人を裁いてしまう自分はいったい何者か」という問いがつきつけられます。
そこから、主イエスが言われようとしていることを思いめぐらしてみます。

人を裁くな

主イエスは言われます。
「人を裁くな、人を罪人だと決めるな。赦しなさい」と。
これは、主イエスの弟子たちに語られた言葉です。今日の聖書箇所の前から続くものです。
すなわち「敵を愛しなさい。」「あなたがたの父(神)が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい」という戒めをさらに具体的にしています。
神の憐み深さゆえに、わたしたちは人を裁かない、罪人だと決めつけない、赦す、という方向が示されています。
わたしたち自身が、神からの憐みを受けて、今があるということに思い至ります。神からの赦しを受けて生かされていることを考えます。神のお考えから離れてしまう者でありながら、自らの力によってではなく、恵みによって神の子とされていることを覚えます。川でおぼれる人の例でいうと、わたしたちが大声で叫ぶ前に、神はわたしたちに手を伸ばしておられました。
神が裁かれない方ではありません。しかし、その裁きは、わたしたちに道を示すためです。「神が御子(キリスト)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためで」す(ヨハネによる福音書3:17)。また、「御子を信じない者は、既に裁かれている」(同3:18)のです。信じないがゆえに、神のご計画に思いをよせることができず、自分の考えの中で行き詰まってしまい、絶望へと向かうのです。その絶望は人間に対する絶望、世に対する絶望ですが、そこでこそ、光に向かうことができます。
一方、わたしたちは常に人の裁きの中にあります。
「あなたはそれでもクリスチャンか」と言われることはないでしょうか。あるいは自分でも「わたしはクリスチャンとしてふさわしいだろうか」と思わざるを得ないこともあるのではないでしょうか。他にもこの世での役割などに対しても、「あなたは○○としてふさわしいか」ということを自他ともに問われることがありますし、そして、完全にふさわしいか、完璧かと問われれば、どこかに穴があり、欠けたところがあるのが普通ではないかと思います。
そして、人の裁きの中で、「こうあるべき」ということを考えすぎて、自由を失っているのだと思います。
また、振り返れば人を裁いている、決めつけていることがあります。あの人はこういう人だ、この人はこういう人だ、というだけでなく、自分自身さえも、私はこういう人間だ、と自分で自分のことを決めています。
こういった決めつけは、どういうところから来るのでしょうか?
それは、誰もがあるところで、自分を安全なところに置きたいからではないでしょうか。ただし、それが本当に安全なところかというとそうではないことがあります。「安全」を求めますが、安全ではなく「安心」を求めます。「安心」したい思いは、見たくないものを見ようとしません。「平和」がないのに、「平和である」と思い込みたいのです。コロナウィルスや災害の関係でみていくときにも、人間はどうしても希望的観測を持ってしまいます。現実を直視することがなかなかできません。自分だけは大丈夫、という思いがあります。そして、なぜ人が他の人や自分について決めつけ、その中で安心しようとするのか、というと、結局は、自分を変えたくないからではないか、と思います。そこには、少し複雑な心も存在するかもしれません。「自分が変わりたい」と思いつつ、痛い目、苦しい目には会いたくない、自分を裸にしたくはない、という思いがあります。傷つきたくない、という気持ちは誰にでもあることでしょう。あるいは、自分の理想を自分に課して、それ以外の自分を見ようともしないことがあります。
だからこそ、イエス様は、「与えなさい」と言われます。「与えること」は、本質的には自分を捨てることです。しかし、一方的に与えるということではなく、与える者と受ける者との相互の関係ができることになります。「与えること」を通して、人と関わりができます。以前、山本将信牧師の言葉を紹介しましたが、「与える人」と「受ける人」は、ボルトとナットの関係になる、ということです。もちろん、その関わりは、必ずしもうまくいくとは限りません。与えたとしても、それが相手の気に入るものとは限らなかったり、おせっかいになることもあります。感謝してほしい、という気持ちがありながら、感謝されないということがありえます。与えたとしても、自分でも思わぬことやものを受け取ることもあるのです。しかし、それは「関係性」がないということではなく、そこに「関係性」が生まれます。人間は、そもそも互いに向き合うように造られています。創世記のはじめに、アダムに対してエバが造られた時、助け合う者という意味と同時に、向き合う者と解釈できます。同じ方向を向いて助け合う、というだけでなく、互いに向き合い、お互いの違いを意識させられる、そのような存在が人間なのです。ですから、他者と関係性を持つということは、そこでわたしたちの在り方が問われることは必然なのです。神がわたしたちが一人でいることはよくない、と言われたのは、きれいごとではすまされない関係こそ人を成長させ深めるものであるからです。イエスさまは、前の箇所で、「何もあてにしないで貸しなさい」と言われ、今回「与えなさい。あなたがたにも与えられる」というのは矛盾するように見えます。しかし、わたしたちが期待したものが与えられるとは必ずしも言えません。期待しなかったものが与えられることもあります。良いものであろうと悪いものであろうと、思いがけないものがあたえられてこそ、互いに向き合う関係性が生まれます。そのようなところに、神の視点があるのです。また、神の視点では、わたしたちに本当に良いもの、ふさわしいものが与えられているはずなのです。

寛容さ
 すなわち、神は私たちに対してあふれるほどに与えてくださる方です。何よりも主イエスをわたしたちに与えてくださいました。すなわち、神ご自身が御子を「与える」ことにおいて、ご自分を捨てられたのです (わたしたちにはそれがなかなか理解できないのですが) 。そして、わたしたちは、自分の秤で物事を見てしまいます。そして、これしか与えられていない、と見てしまうならば、いつも不満があるだけです。しかし、神はわたしたちにふさわしいものを与えてくださるのです。小さい子どもに対して、刃物を与えるときは気を付けるように、神はわたしたちが持てあますものをくださらないですし、わたしたちが管理できる範囲でくださるのだ、と私は信じています。例えば、食料問題はなかなか解決できませんが、カロリーベースでは世界の人口の倍を養える穀物が生産されている、ということもあります。分かち合うこと、無駄にしないことなどが課題としてあるでしょう。人間の欲望なのか、本当に必要なものなのか、その判断が難しいところがありますが、わたしたちに与えられている神の恵みは、本来十分です。善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせる神がいます。神にあって、わたしたちが等しく愛されている、ということが寛容さの要になるのでしょう。
十分与えられているということに気づくなら、そこに生まれるのは感謝です。

師のようになる
 そして、ここで主イエスは、唐突に「弟子は師にまさるものではないが、師のようになれる」と言われます。十分な修行を積めば、師のようになれる、と言われますが、完全な訓練をすれば、ということです。完全な訓練とは、自分の力でするものではありません。主イエスのように厳しさを持ちつつも、寛容であり、敵対するものたちをも愛することはできません。しかし、主イエスが私たちを導いてくださるのです。それは、終わりの日に向かっている希望であり、罪あるわたしたちが完全に贖われる時が約束されています。そして、主イエスが共にいてくださる、ということこそ、わたしたちの慰めであり希望なのです。

自分の目の丸太をとりのぞく
 主イエスによる導き、訓練とはどのようなものでしょうか。
それが、自分の目から丸太を取り除くことです。
人の目のおが屑を取り除こうとしていないか、人を裁いていないか、罪人と決めつけていないか、と主イエスは問われます。
「いや、わたしは他の人の目のおが屑をとろうとしたことなどないですよ」と言えるか、というと案外そうではないことに、気づかされます。自分の価値観や経験を、善意でもって伝えても、押し付けられた、と思われることがあります。
他の人にやってあげたのに、感謝もされない、報われない、という気持ちが起こることもあります。文化の違いや作法の違い、世代の違いということでも誤解があったりもします。
一方、自分のことはどうだろうか、と考えさせられます。
すべての人の忠告を素直に聞けただろうか。
自分の目に丸太があったのではないだろうか、と。私の思いを超えたところに神の思いがあるのではないだろうか、と。厳しい言葉として響くこともあるでしょう。
しかし、このような主イエスの言葉によって、わたしたちは自分自身が立ち帰る場所があることに気づかされます。神によって生かされ、神の働きを担う者として、本来あるところ、帰るところが示されているのです。
わたしたちが神を見出したのではなく、神がわたしたちを見出し、手を引いていてくださる。自分の力や思いをこえた神の働きがある。そのことに目が開かれるなら、わたしたちは自分のかけていた色眼鏡を外す選択ができるでしょう。そして、ここにわたしたちの救い、自由があります。

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