2022年2月20日 礼拝説教

聖 書
 旧約聖書 イザヤ書53章12節 (旧約p1150)
福 音 書  ルカによる福音書18章31~34節 (新約p145)

説 教 「神の出来事を受け入れる」 柳谷知之牧師

十二弟子を呼び寄せて

主イエスは、十二弟子を呼び寄せて言われます。
その他大勢にではなく、ご自分が選ばれた弟子たちに対して特別に語られます。
ここに主イエスが弟子たちにはこのことを知っていて欲しい、という強い思いがあります。

理解できない道
主イエスは言われます。
「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」
そして、ご自分の受難について語られます。
「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。」
人の子は、主イエスがご自分のことを指して言われる言葉ですが、ここにはむごたらしい人の子の殺され方が示されています。
主イエスがご自分の受難について話をされるのは、これが三度目です。しかも、いよいよエルサレムに近づいている時でした。
しかし、弟子たちは誰もこのことが何を言っていることなのか、理解できなかったのです。

弟子たちにとってエルサレムに向かうということは、主イエスがいよいよメシアとして君臨する時が来るということでした。それは、ローマ帝国の支配や神殿中心の律法主義的な社会が終わり、エルサレムが他国の支配を受けず、ダビデやソロモンの時代のように栄光に輝く時だと考えていました。すなわち、主イエスがこの地上の王として即位し、弟子たちもその栄光に与ることができるのです。エルサレムに向かう道は、栄光の道でしかありません。その希望を胸に弟子たちは主イエスに従ってきました。この人こそ、イスラエルを救い、全世界を救われるメシアである、救い主である、と信じていたのです。そして、目の前の主イエスは、まさに立派な人であり、言葉に権威があり、奇跡を行うだけでなく、弱い人たちを心から大切にしている人であり、多くの人たちから尊敬され、期待されている人でありました。

ところが主イエスが語られる「人の子」の道は、苦難の末、殺されていく道でした。「私たちの先生は、いったい誰のことを語っているのだろうか。」そんな思いで聞いたのかもしれません。

一方、わたしたちは主イエスの十字架と復活を知っています。だから、わたしたちはこの言葉に躓かないと言えるでしょうか。

もし今教会に対して、同じような言葉が語られたらどうでしょうか。

すなわち
「教会は、神を信じない人たちに引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる」と。

弟子たちと同じように、私たちもこの苦難の道は理解できないのではないでしょうか。理解できないというよりも、受け入れられないのではないでしょうか。

教会が多くの人にバッシングを受けるようなことがあれば大変だと思うところがあります。また、牧師や教会のリーダーたちがもし逮捕されるというようなことがあれば、多くの人は躓いてしまうでしょう。伝道はできない、と思うかもしれません。

十字架の道
 しかし、主イエスが言われる道は、苦難の道を通らなければ、人は生まれ変わることができない、ということであり、永遠の命、復活の命には、この世での苦難が伴うということです。

お一人お一人、その苦難の度合いは相対的には違うでしょうけれど、主観的には大きな苦難を経て、世の価値とは違う価値に気づかされて主イエスに出会ってきたと思います。

パウロが語る「弱さこそ力」という言葉にも頷くことができる方も多いことでしょう。

主イエスは、
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従い なさい。」(ルカ9:23)と言われ、

パウロは、
「わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマ6:5)と語ります。

古い自分に死ななければ、罪の自分に死ななければ、新しい生き方、新しい命はないのです。聖書が語る新しい価値観に生きること、そんな人の命にも価値と意味があり、能力によって生きるのではなく恵みによって共に生きること、そこに命があります。

先日、2.11思想・信教の自由を守る集いがネット会議システムを用いて行われました。

お二人の発題があり、お一人は持続可能な開発目標(SDGs)の観点からお話してくださいました。持続可能な社会のための17の目標があります。貧困をなくそう、飢餓をなくそう、ジェンダーの平等、すべての人に健康と福祉を、などに加えて、環境のことなどについても目標が示されています。ここに何ができるか、ということは教会にとっても関係のないことではありません。神が造られた世界を守り管理することが人間の責任であると考えられます。

そして、経済界の人たちにとっては、環境保護と経済活動を両立させることが第一となります。環境保護か経済活動か、という二者択一ではなく、二者を両立させようとしています。環境保護活動はビジネスチャンスとして捉えられていますが、結局は「経済活動」が中心となっているように見えます。岸田内閣が新しい資本主義といったりもしています。経済成長が「神」となっている世界ではないか、と感じさせられています。

一方、「人新世の『資本論』」(斎藤幸平著)という本が一昨年ぐらいから注目されその類の本ではベストセラーとなっています。新自由主義的資本主義で格差が大きくなり、新しい道はないのか、別な道はないのか、と希望する中で、マルクスの資本論の先見性が紹介されました。そこでは脱経済成長、脱資本主義という切り口がかえって新鮮だと多くの人たちに受け止められ、メディアでも紹介されたりしました。マルクスは資本論の草稿の中で環境問題にも敏感さを示していたとのことです。

先週は、「財産のある人が神の国に入るのは難しい」という言葉を聞きました。また、主イエスは「あなたがたは神と富に仕えることはできない」(ルカ16:13)と言われています。

神に従う道には、大なり小なり十字架の道がついてきます。教会の歴史は、十字架の道によって変えられてきました。
主イエスが弟子たちに特別に語られた道です。
しかし、そこに復活と永遠の命に至る道が示されています。

わたしたちが、行き詰まったり、迷ったりするとき、恐れを感じる時にこそ、この十字架の道を思い起こしたいものです。十字架の道は、復活の命につながる道だからです。

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