聖 書
旧約聖書 イザヤ書55章10,11節 (旧約p1153)
福 音 書 ルカによる福音書9章21~27節 (新約p122)
説 教 「十字架と復活」柳谷知之牧師
一人一人の中にある死者
この一年というだけでなく、わたしたちは生きている時が長ければ長いほど、死者に囲まれていると言えるかもしれません。深く考えていくと、歴史を通してわたしたちは様々な人の命を受け継いで生きている、ということにもなりますので、死者の中にある、死者と共にある、というのは、実は、長く生きているかいないかに関わらないことになります。(現在生きている人類よりもはるかに多くの死者たちがいるはずですから)
わたしにとっては、最初に死を身近に意識したのは、小学校高学年時の母方の祖父の死でした。母がとてもうなだれていたのを思い起こします。また、中学の時の友人のお母さんも想い起こします。クラスを代表してお葬式に参列しました。20代の時には同世代の従弟をなくし、30代で大学時代の先輩を二人、40代で会社の時の先輩を失いました。その後、父と母を天に送りました。他にも親族や知人、友人、そして、教会の牧師になると、その教会での交わりを得た兄弟姉妹やその近しい方々を思い起します。
人がいつかは死ぬことは当たり前のことです。しかし、その死が身近に迫るとき、嘆きや悲しみ、寂しさが襲ってきます。自分自身も含めて人が死ぬ時をわたしたちは選ぶことはできません。どんなに病んでいる時が長かったとしても、その時は突然のこととなります。そして、せめてもう一年、一か月、一週間、一日と、すこしでも長く生きていてくれれば、という思いを持たないことはないと思います。
わたしたちは、誰でも死に囲まれ、また死者と共に生きているのです。
死んでも終わらない命
死んですべてが終わってしまう、と考える人も多いようですが、世の中の思想は人々が感じていることとは別に死んでも終わらない命がある、と伝えています。宗教者や思想家たちがそのことを言い表しています。
2011年の東日本大震災があった後、中島岳志という40代の思想家(歴史学者、政治学者)が、死で人は終わらないと述べました。死者は対話の中に生きているのだ、と論じたのです。わたしたちが生きていく中で、「この時に、お父さんだったらどうするだろうか、何を考えるだろう」と思いめぐらしたりすることは、すでに死者との対話がはじまっており、その都度、その死者は私たちの中に生きているのだ。だから死んでも無になることはない、と多くの死別の悲しみを抱えた人たちへの慰めを語りました。
また、ある仏教界の人は、次のように語っています。「お盆の時期は、死者の魂が帰ってくるのですよ。その時に、皆で語り合うことをその死者も楽しみにしていることでしょう。わたしたちが思い出を語り合う中で、亡くなった方の新たな面を発見し、新たな出会いも与えられます」と。亡くなった方との交わりは肉体の死で潰えるのではなく、その後も故人を知る人の間で続いていきますし、新しい出会いや発見もあるのです。
そのようにして、わたしたちは死に打ち勝とうとしています。そのむなしさや寂しさ、悲しみに押しつぶされることなく、それを克服したい、あるいはそこから解き放たれたいと願っています。また、死者を前にして、わたしたちのうちには、どこかで後悔があります。もっとこうしてあげたかった、という思いなどです。その悔やみからも解き放たれたいのです。死んだ人の分まで、あるいは死んだ人に恥じないように、一生懸命いきよう、という思いも生まれてきます。(それとは、真逆に死ぬことなど考えても仕方ない、今を楽しく生きよう、という方向もあることでしょう。)
復活の命
誰もが死に打ち勝ちたい、死を終わりとしない、と心の中では願っている中で、わたしたちには、主イエスの復活が与えられています。
「復活」というと、わたしが思い起こすのは、神学校時代に、後輩ですが私より後に入学してきた年配の弁護士の方のことです。彼と電車の中で向き合ってお話をする機会がありました。その方は「わたしがキリスト教に惹かれたのは、復活があるからです。」と言われました。若い時にお連れ合いをなくし、むなしさを覚えていたとのことです。もう一度会えるものならまた会いたいと思って生きてきた、というのですが、そこで、もう一度会える、という希望がキリスト教にはある、聖書にはある、と言われていました。そして、その希望を伝えるように牧師を目指している、と言われました。
当時、わたしは、死者ともう一度会うというその希望には、現実味を感じませんでした。わたしにとって福音というのは今を生きるためのものであり、死後の世界について深く考える必要はなく、ただ神にお任せするしかないと思っていました。ですから、その方の言葉は、心の底に届くというよりも違和感として残っていたのです。
しかし、牧師になってから、信仰を持った兄弟姉妹を天に送ることになると、その希望は、よりそうあってほしい、というものに変わりました。
そして、聖書が次のように語っていることに注目します。「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。」(使徒言行録24:15)、「善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」(ヨハネによる福音書5:29)とあるように、すべての者が復活させられるのです。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(15:20)とありますように、主イエスは、わたしたちの復活の第一人者であり、復活の約束のしるしとなっているのです。
一方、それらをまじめに考えると、そうなったとき、わたしはどちらにいるのだろうか、命の側か、裁きを受ける側か、となるかもしれません。
終わりの日があるから倫理が生まれる、という神学者がいます。確かにこの世でした悪事が、最後は裁かれるということで、正しく生きよう、という気持ちも生まれてくるという意味として考えることができます。しかし、それは、半ば脅しとなり、清く正しく神に従わなければ救われない、ということになってしまいます。そこには福音はありません。
その復活においても、神の赦しがあるのです。主イエスの十字架はその赦しを先取りしています。
バルトという神学者は、わたしたちが「裁かれてこそ救われる」と語ります。黙示録は、終わりの日にすべてが新しくされる世界を語ります(黙示録21:1、Ⅱペトロ3:13)。そこで、救われるということは、わたしたちが罪をすべて取りのぞかれ、義とされる、清くされるということです。心の奥底に感じているいやらしい自分さえも終わりの日には救われるのです。私たちの努力によるものではなく、神の恵みとして与えられる義です。それは福音であり、その義があるからこそ、わたしたちは、自分が命の側か、裁きを受ける側かに分けることはないのです。(あの人は裁きの側か、命の側かと分けることもありません)
そして、復活の喜び、赦しの喜びのリアリティは、実は十字架にあります。
十字架の命
本日の聖書で、主イエスはご自分が「苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と語られました。その後、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われます。
主イエスご自身が、ご自分の十字架を負われたからこそ言える言葉です。
この主イエスの十字架のリアリティについて、わたしは次のように考えています。今の世界においても、理不尽なことが数多くあります。人の罪のために死に至る人々、人生を無茶苦茶にされてしまった人たちが大勢います。不正がはびこり、その中で自ら命を絶った人々もいます。戦争があり、テロがあり、あらゆるところで搾取があります。力の強いものが弱い者を踏みつけている現実があります。わたしたちと直接関わりがあるかないかに関わらず、この世の中の構造の中で、私たち自身が、被害者である面と、加害者である面があります。わたしたちがあのゴルゴタにいたとすると、自分が代わりに十字架についていたかもしれない、ということと、逆に十字架につける側だったのではないか、と言う面をみるのです。
主イエスは、その中でいつも殺される側にいる人たちの代表者です。通常の歴史では強者となる加害者の歴史の中で、名を遺すことなく埋もれてしまう人々がいます。しかし、主イエスは、そのような人々の生き方が記憶され、神の子として栄光を受ける者となるという姿を現します。
主イエスの十字架と復活は、負の歴史の中で、今も神は虐げられている者たち、悲しむ者たち、苦しむものたちと共にいてくださることと、その報いを必ずしてくださることを表しています。
そして、私たちの誰もが被害者であるというだけにとどまりません。あるところでは加害者でもあります。立場的にそうせざるを得ないこともあります。仕方ないと言ってしまうこともあります。そのすべてが、終わりの日に裁かれ、そして赦され、わたしたちは新しい人として作り変えられるのです。新しい天と地を待ち望まざるを得ない者です。
本来、倫理はそこから生まれます。
神が私たちと共にいて、苦しんでくださるからです。
亡き押田神父の著作集の中で、次のような出来事が描かれています。
「薬物を辞められない人がいた。最後にもう一度チャンスをくれ、というのでチャンスを与えたが、またやってしまった。その一番そばにいる者が、何も言わず泣くだけだった。しかし、それでその人はもう二度と薬物に溺れることはなかった」と。
深いところでわたしたちと関わりを持ってくださる方がいる、そこで、わたしたちの感じる空虚な穴が満たされるのです。そこにわたしたちの救いがあります。すべてが満たされるからこそ倫理が生まれます。また、罪のない世界を希望することは、そこに向かおうとする意思を表します。その意思が倫理的であれ、と命じます
ですから、終わりの日から考える倫理は決して脅しではありません。愛する人を思うとき、わたしたちは倫理的になるのです。愛する人を思うその先に、神がいてくださるのです。
わたしたちの身近な死者も、おそらく様々な十字架を負ってきたことでしょう。自分を犠牲にし、家族のために、人々のために命を燃やしてきたのです。その苦しみや悲しみの中で、わたしたちに語りかけるやさしさがありました。神にゆだねる信仰がありました。そして、死をこえた命を指し示しています。
主イエスがそのすべてを代弁してくださいます。
その声を聞くとき、わたしたちもまた自分自身の十字架を負う勇気が与えられます。死に打ち勝つ歩みへと踏み出します。神から背いた日々から立ち帰りたいと願います。
今日の旧約聖書は語ります。
「10 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」
私たちの命は、そのように神に用いられる命です。どんなことがあっても、どのように他人に加害的であろうと、被害を被ったとしても、神の大きな御業の中で、必ず神の使命を果たすように生かされているのです。
ですから、一人一人が負う十字架の中にこそ復活に向かう命があります。
既に天に召された私たちが愛する人たちも、自身の十字架の道を通して、神によって生かされている命の不思議さと終わらない命を伝えているのです。