2021年5月9日 主日礼拝説教 復活節第6主日

聖 書

旧約聖書 列王上18章38節 (旧約p564)

福 音 書 ルカによる福音書18章1~8節 (新約p143)

説 教 「今こそ祈りの時」 柳谷知之

気を落としてしまうとき

一生懸命やっていればやっているほど、また真面目に生きていればそうであるほど、失望させられることが多いのも現実ではないでしょうか。なかなか成果がでないこと、周囲から理解されないこと、他者からの誹謗中傷だけでなく、自分自身に対する失望もあることでしょう。体力知力の衰えなども感じさせられることが多々あります。理想と現実は違う、ということはいつでも言われます。

今日、主イエスは気を落としている人たちに言われています。気落ちしてしまう人たちに、絶えず祈らなければならないことを教えられるのです。

「気落ちする」というのは、がっかりする、失望する、あきらめる、やる気を失うことです。また、もともとの言葉の意味を見ますと、さらにある環境の中で悪い行いをする、ということも意味しているようです。

使徒パウロは、この言葉を否定的に使って「たゆまず善いことをしなさい」(Ⅱテサロニケ3:13)と述べています。「善いことをするのに気落ちしないで」「あきらめずに続けていこう」ということが意味されています。

主イエスは、「あきらめずに絶えず祈りなさい」ということを教えるために、次のたとえをなされます。

裁判官とやもめのたとえ

当時も法があり、裁判がありました。裁判官に任じられる人もいました。

あるやもめが、自分が受けている不当を訴えて、相手を裁いてくれるよう、自分を守ってくれるように裁判官に訴えました。このやもめはおそらくお金がなかったことでしょう。裁判官は、自分に利益のないことをするつもりはありませんでした。「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」だったからです。通常ならば、やもめは泣き寝入りするしかありません。裁判官に支払うお金もなかったのですから、この社会はそんなもんだ、最初から訴えることをとあきらめるのが普通だったかもしれません。

しかし、このやもめは、しつこく食い下がりました。

人を人とも思わない裁判官でさえ「あのやもめは、うるさくてかなわない」と思わせられるほどでした。「さんざんな目に遭わすに違いない」(5節)とは、もともとの言葉は「あざがでるほど殴られるかもしれない」ということです。暴力にまで訴えるかもしれないと恐れられているのですから、ちょっとおだやかではありません。

そして、とうとう「あのやもめのために裁判をしてやろう」と思わせるのです。

主イエスは、これを例えとして語られました。

この例えに、どれだけ現実味があったのでしょう。

神を敬うこともせず、人を人とも思わない思い上がった人でさえも、自分にトラブルを持ち込んでくる人を無視はできない、ということです。

恐らく男社会だったことと思います。同じことでも、男性が言うのと女性が言うのでは聞かれ方が違った、ということもあったでしょう。そのような社会の中で、男性の後ろ盾がないやもめは、圧倒的に不利だったことでしょう。しかし、このやもめはそのようなことでは、あきらめず、思い上がった裁判官にしつこく頼んだのです。

ただしつこく同じことを繰り返しただけでは言うことは聞かれなかったのではないか、と思ったりもします。

裁判官が行くところには、どこにでも行って、待ち構えていたに違いありません。裁判官は自分が殴られるかもしれないと恐怖さえ感じているのです。そして、裁判官は根負けしてしまったのです。

どのような状況が想定されているか

さて、今回、この箇所を読んでいると、これはただ単に個人的な祈りのことではないのではないか、と思うのです。やもめというのは、社会的に立場の弱い人たちでした。彼女がどのようなことから自分を守ってほしいのか、というと、考えうることはいくつかあります。

例えば、亡き夫の遺産を自分は相続することができなくなってしまいそうだ、とか、亡き夫が残した借金が重くのしかかってきている、とか。子どもを奪われてしまった、とか。

弱い立場の人が守られなくてはならない、ということは誰でも思うところでしょう。

そして、主イエスは弟子たちが気落ちしないようにと思いで、この例えを語られているところも併せて考えます。

主イエスを信じる弟子たちにとって、再び主イエスが来られるという希望がありました。そして、主イエスを信じて救われる人が増えることを望んでいたことでしょう。一方、現実は、主イエスを信じる者は迫害され、時代によってはひどく残酷な仕方で殺されるということもありました。神はそんな自分たちを黙ってみているだけなのか、問うこともあったと思われます。そして、中には絶望して、それ以上前には進めないという人たちや信仰から離れてしまう人たちもいたことでしょう。

こうした教会の状況の中にあって、今日の言葉が響いてくるのです。

正義が行われていない世に対して、あきらめてはいけない、絶えず祈らなければならないのだ、と。

そして、思い上がった裁判官でさえ、しつこく頼むやもめの言うことを聞かざるを得ないように、ましてやあなたがたを愛している神は、あなたがたを助けないわけはないのだ、と語られています。

今日の旧約聖書において、神はエリヤの願いを聞かれ、バアルの預言者たちを打ち砕きました。この場では、エリヤはバアルの預言者に勝ちますが、それは束の間で、やがてエリヤはアハブ王の妻イザベルに命を狙われる身となったのでした。

立場の弱い者と共にいてくださる神は、主イエスを通してなおさらその姿をはっきりとご自身を現されます。

(参考 詩編146:9 主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。)

なぜ願いはかなえられないのか?

このようにしつこく願い求めれば、神は祈りを聞いて願いをかなえてくださる、神の正義が必ず行われると結論づけたいところですが、一方、わたしたちは尚も試練や苦難の中にあると言えます。今は決して信仰深い時代ではありません。多くの人も社会も目に見えることにとらわれ、目に見えないことはないものとして扱われてしまいます。感染症のために人と人との結びつきも希薄化していきます。不正がはびこり、正義は捻じ曲げられています。自然災害は激甚化し、先が見えない世に生きています。人々の間の経済的格差も広がっています。

神は、わたしたちの願いをただ聞いてくださる方なのでしょうか? そうは思えない現実もあるのです。

そこで、今日の福音書の後半をもう少し丁寧に見ていきます。福音書は、神を信じる者たちについて、「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」と表現しています。その人たちを神は放ってはおかれないのだ、というのです。

神を信じる者は、昼も夜も何を叫び求めるのでしょう?

それは、神の国です。神の支配がこの地になりますように、と祈ります。人の罪がすべて贖われ、新しい世界になることを待ち望み祈るのです。世の不正が正され、そのもととなる罪の根が絶たれることを待ち望みます。主イエスが「ただ神の国を求めなさい」(ルカ12:31)と言われることと重なります。

また、最後に終わりの日の裁きが語られています。人の子が来る時に地上に信仰があるだろうか、と問われるのです。人の子は、まず裁き主としてやってきます。わたしは、自らも裁かれることを覚悟しなければならないように思っています。しかし、その裁きを通して最後は救われるのです。

そのことにつながるとき、わたしたちの祈りは聞かれていくでしょう。

一方、願いが聞かれないとき、わたしたちは自分の願いそのものが問われるに違いありません。自分の願いは、そのように神の国につながるものだろうか、と。

そのようにして、日々裁かれつつも、ふさわしく祈るものへと変えられていくのです。そして、それは祈るものだけが分かることなのではないでしょうか。

神は、わたしたちを祈りによって教え、導かれる方でもあるのです。

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