2021年8月22日 礼拝説教 聖霊降臨節第14主日

聖書

旧約聖書 イザヤ書51章7節 (旧約p1146)

7 わたしに聞け
正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。

人に嘲られることを恐れるな。

ののしられてもおののくな。

新約聖書(福音書)ルカによる福音書12章22~34節 (新約p132)

22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

説教 「小さな群れよ、恐れるな」柳谷知之牧師

思い悩むな

主イエスは言われます。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と(ルカ12:22)。「思い悩むな」と言われますが、その前に「だから」とあります。これは、前に語られていることを受けてのことです。今日のルカによる福音書の前で、主イエスは、愚かな金持ちの例えを話されました。

―ある金持ちは自分の土地が豊作であり、その収穫物を蓄えるところがなくて悩みます。「今の倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう」と決めて自分に言い聞かせました。「さあ一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。新共同訳では訳出されていないのですが、金持ちは、自分の魂 (プシュケー)に語っています。ところが、神さまはこの金持ちの命 (プシュケー)を取り去ってしまいます。8月8日の礼拝でもお話しましたが、このプシュケーは魂とも命とも訳されますが、人間の存在を支える根源的なものを示します。金持ちは、財産を蓄え、食料を蓄えて、自分の命、存在は安心、安全だ、何の心配もない、と思うのですが、皮肉なことに、神さまはこの金持ちの命そのものを取り去ってしまうのです。神さまは、いままで蓄えたものは一体誰のものになってしまうのか、と問われます。―

自分の命(プシュケー)のことを思い悩み、自分の力だけで解決しようとする愚かさと、財産を自分のためだけに用いようとする愚かさが語られています。

そのことを受けて、「命(プシュケー)のことで思い悩むな」と主イエスは言われるのです。「思い悩むな」とは、自分のことだけを考えるな、自分の力だけを頼みにするな、ということです。

誰でもなんらかの悩みがあるでしょう。皆様も、将来に対する不安もあるでしょうし、心配になっていることもあるに違いありません。しかし、その心配を自分だけで解決しなければならないのだとすると、それは「思い悩み」になるのです。

今の時代、思い悩む人は多いのではないでしょうか。困難なことがあっても、それは自己責任だと言われます。また、他の人の助けにはなりたくない、と思う人が多い世の中です。新型コロナウィルスが蔓延する中で、仕事を失う人が増加しています。一方、その増加に比べて生活保護を受ける人は少ないようです。生活困窮者を支援するある団体は「私たちの相談活動の中でも、『生活保護だけは死んでも受けたくない』という強い忌避感を示す人が極めて多いのです。」と述べています。

ですから、さすがに、厚労省も昨年12月から呼びかけています。

「生活保護の申請は国民の権利です。生活保護を申請する可能性はどなたにもあるものですので、ためらわずにご相談ください」と。

一方、安定した生活をしている人の中には、「なぜ、税金をホームレスや生活困窮者のために用いなければならないのだ」と不満を語る人もいます(https://www.asahi.com/articles/ASP8J639BP8JULZU00B.html)。
貧困や生活困窮に陥ることには社会的な要因があり、自己責任とは言えません。生活保護制度はこれを社会全体で支え、生存権を守るための制度であるという根本的な理解を欠いた考えです。(ちなみに、日本国憲法第25条の生存権制定には、鈴木義男(1894~1963年)という政治家、法学者、弁護士の寄与が大きいことが分かっています。)

現代は、共に生きる事を忘れて、誰もが思い悩んでいる時代だ、と言えます。

神を信頼せよ、神の国を求めよ

思い悩む現代の私たちに、主イエスは、言われます。

「烏(カラス)のことを考えてみなさい。」(24節)、「野の花がどのように育つか、考えてみなさい」(27節)と。

烏は、種もまかず、刈り入れもしないし、納屋も倉も持っていない。野の花は、働きもせず、紡ぎもしない。けれど、神さまはそれらを養ってくださいます。ましてや、あなたがたにはなおさらだ、と。あなたがたの父(神)は、あなたがたに、食べ物や着る物が必要なことはご存知である、と。

烏は、イスラエルでは忌み嫌われていた鳥でした。野宿者(宿なしの放浪者)のことを「烏」と呼んでいたという説もあります。

何れにしても、働くこともしない、蓄えることもしていない存在が、神さまによって守られ、養われているではないか。ましてやあなたがたはそれらに優るものではないか、なおさら神さまはあなたがたを養ってくださるのだ、と主は言われます。

主イエスの言葉を聞いたのは、裕福な人ばかりではありませんでした。むしろ、友が夜中に訪ねて来ても、食べ物を出すことができないような人々(ルカ11:5)が多かったと考えられます。明日の食事を心配せざるをえないような人々でした。

そのような人々を前に「思い悩む」のではなく、「神の国」を求めなさい、と言われます。

神の国とは

では、「神の国」とはどんな世界でしょうか。

私たちは、主の祈りで「御国」すなわち「神の国」の到来を願い求めます。

「神の国」は、「御心のなる」ところ、神さまの思いがなるところです。

神さまの思いは、人間が神を愛し、人を愛することを望まれます。

主イエスは、新しい掟として、「互いに愛し合いなさい」と言われます。

神さまは「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)と言われ、人間が共に生きることを望まれます。

また、主の祈りにおいて、わたしたちは神さまを「父」と呼びます。今日の聖書でも、主は、神を指して「あなたがたの父は」と言われます。「神の国」は、神さまを「父」とする世界です。それは、わたしたちが一方的に「神」を「父」と呼ぶだけでなく、神さまもまた私たちを「子」と呼んでくださるのです。

「神の国」では、わたしたちは神を中心とする家族なのです。

その「神の国」が実現するとき、わたしたちは「思い悩み」から解放されるのです。

自己中心的に、自分の命だけを守ろうとしなくてもよいのです。

明日のことを思い煩うのではなく、今を生きること、他者と共に生きることができるのです。

私たちはこの世的には小さな群れです。

その私たちを主イエスは励まし

「恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と言われます。

私たちは皆「神の国」に招かれ、「神の国」に生きるように導かれているのです。

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