聖 書
旧約聖書 エレミヤ書8章11節 (旧約p1191)
11 彼らは、おとめなるわが民の破滅を
手軽に治療して
平和がないのに「平和、平和」と言う。
新約聖書(福音書)ルカによる福音書12章49~53節 (新約p133)
49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53 父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」
説 教 「火を燃やす」柳谷知之牧師
火を投じる
キリスト教は神の言葉である聖書を大事にしています。その聖書は、主イエスの人格を通して理解されるものです。主イエスは、律法主義を否定されました。律法主義は、神を頼みとせず、自分の力を頼みとすることになります。神の祝福を受けるのも呪いを受けるのも自分次第であり、結局は自己責任ということになるのです。主イエスは神の憐みを説かれました。神の憐みは、石ころからでもアブラハムの子孫を造り出せるほどであり、どんな犯罪者であっても、最後に悔い改めれば救われることを示されています。人を分け隔てすることなく、あらゆる差別を越えていく働きをされました。そのような主イエスは、私たちに対して限りなく優しいイメージを与えています。しかし、そのやさしさは何でもすべて許すことではありません。その中にも厳しさがあることを今日の聖書から覚えます。「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。分裂だ」(ルカ12:51)と言われています。わたしたちが主に持っているイメージと反することが、語られています。
主イエスが来られたのは、平和をもたらすためではなく、分裂なのだ、地上に火を投じるためだ、と言われると、わたしたちは戸惑うようなところがあります。
どのような意味で言われているのか、考えさせられます。
火、炎が現すこと
そこで、まず、「火」について考えてみます。
主はその火が燃えていたら、と願っています。
「火」は、「火を投じる」というと、火事や放火などのように恐ろしいイメージがあります。「裁き」を思い起こさせる「火」もあります。しかし、「火」ということだけで考えると、決して悪いイメージだけではありません。
「火」は、暗闇を照らす光となることもあり、火によって暖をとることもできます。
「信仰のともし火」と言われることがあります。主の言葉によって、心が燃える、ということが起こります(ルカ24:32)。そして、「火」によって、練り清められる、純化されるというイメージもあります。
(主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。-詩編12:7 神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。-詩編18:31 これらの指導者の何人かが倒されるのは、終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。-ダニエル11:35など)
不純物を取り除く清めの火です。これは、金属を精錬するときに、火によって不純物を取り除く作業から与えられるイメージです。
主イエスの言葉によって、心に火が付く、眠りから目覚める、ということが起こります。これまで見ていた世界が変えられることがあります。これまでの世界観が、変えられます。主の言葉によって、自分自身の中から不純物(余計なもの)が取りのぞかれていくこともあります。
主イエスが望まれている「火」には以上のようなイメージがあります。
あなたがたの間に火が燃えていればよいのに、という言葉は、今日の招きの言葉とも重ねられます。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。」(黙示録3:15)
主イエスは、生ぬるい状態の私たちに対して、燃えているように、熱くあれ、と言われています。
そして、「火」は「炎」となると聖霊と関連します。聖霊は、「炎」のような言葉として、ペンテコステに弟子たちに降ったからです。また、次の言葉も想い起こします。
洗礼者ヨハネが、ヨルダン川で洗礼を授けていた時に、民衆はヨハネがメシアではないか、と考えました。その時に、ヨハネは次のように言っています。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが…その方(来るべきメシア)は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」
「火」は洗礼と関連しています。洗礼は、もともとは、水に沈められる経験です。そこで「死」を覚悟しますが、そこから新しい命を受けるのです。そこで私は「火」は「死」であり、「十字架」と考えます。十字架は「苦難」と言うこともできます。「苦難」を否定されるべきものとしてのみとらえるならば、それは「裁き」となり自分の存在を否定するだけのものとなるでしょう。しかし神の光の中から見ると、「苦難」にも、恵みがあります。「苦難」によって、自分自身の生きる根本を知らされます。「苦難」において、人間は自分の力だけで生きて来たのではなく、生かされてきたことに気づかされます。「苦難」において、自分自身が限りある存在であることを知ります。だからこそ、生きる事は大きな恵みとなっていきます。
わたしたちは、神の愛の言葉を悟る聖霊と、「十字架」によって、新しい生き方へと導かれるのです。
主が受けるべき洗礼
主は「自分には受けねばならない洗礼がある」と言われます。十字架の道を表します。
主は、世の権力者たちに疎まれ妬まれ、人々にも弟子たちにも見捨てられ、十字架の道を歩まれました。
福音書を読むと、主イエスには、逃げたいという気持ちもあったことが分かります。その苦い杯をできることならば避けたいと願いました。しかし、主は神の御心がなることを第一に願いました。
主は、ご自分の気持ちと神の御心が、かけ離れていることを経験されましたが、祈りを通して主は神にすべてを委ねられたのです。主の十字架によって、私たちの罪は赦され、私たちは神のものとされています。
そして、私たちも主に従って、自分の十字架を負うように勧められているのです。
主のために、神の栄光のために十字架を負わざるを得ないことがあります。与えられた使命に生きることです。
「神の栄光」のために、といっても具体的にどういうことでしょうか。
神が何を望まれているのか、考えると見えてくると思います。
神は、すべての被造物が生き生きと生きる事を望まれますし、人の思いと違うところにご自分の意志を示されることがあります。主イエスの十字架は、なによりも人の思いと神の思いが違うことを表します。
人が捨てた者によって、神は栄光を現されるのです。主によって選ばれた者は、皆世にあって愚かな者、貧しく小さい者でありました。世から切り捨てられた存在によって、神の栄光が現されるのです。
分裂をもたらす
世に捨てられた者として、十字架の道を歩む生き方が、分裂をもたらします。意図して分裂するのではありません。世の価値観から受け入れられず、必然的にその他大勢の生き方から離れざるを得ないのです。
それが、主が投じられた「火」です。その「火」は福音です。
み言葉に聴き、福音に生きる
なぜなら、福音は、世の価値観と異なるからです。世の価値観には、律法主義(成果主義、自己責任)があります。
一方、福音の根本には、「神の憐み」があります。
神は、イスラエルを選ばれたとき、その民が強いから、優秀だから、従順で純粋だから選ばれたのではありませんでした。むしろ、イスラエルの民が選ばれているのは、人が神のみによって生かされていることが分かるためでした。イスラエルは神に反抗し、神に打ち砕かれつつ、神に従ってきた民です。教会の歴史も、栄光よりも汚点が語られることもあります。罪深きことがありながらも、それが赦されていることを表すのが神の民です。
人間は自分の罪深さに耐えられませんし、それを見ずに過ごそうとしたり、逆に押しつぶされそうになります。だからこそ、日々み言葉に触れ、赦しの福音を聴くことが必要です。
私たちには、いつも神の赦しの声が用意され、赦された罪人として生きる道が備えられているのです。神が与えてくださった使命に生きるように導かれているのです。憐みによって生かされていることを現すことです。