2021年2月21日礼拝説教

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聖 書

旧約聖書 エゼキエル書34章23節 (旧約p1353)

福 音 書 ルカによる福音書10章1~12節 (新約p125)

説 教 「働き手を送ってください」   柳谷知之

働き手の派遣

主イエスは、エルサレムに向かう途上で、72人の弟子たちを派遣しました。72人という数はどこから来るのでしょう? イスラエルの12部族にならって、ペトロ、ヤコブ、ヨハネたちを含む12人の弟子たちが選ばれました。72人は、12の6倍ですが、どうやら出エジプトの出来事からとられているようです。民数記11章24節以下に次のようにことが描かれています。

モーセが民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせると、主がモーセに授けられている霊の一部をその七十人の長老にも授けられました。霊がとどまった長老たちは一時的に預言状態になりました。さらにまだ宿営に残っていた二人の長老にも霊が彼らの上にもとどまり、宿営で預言状態になりました。そのように霊を受けたモーセの弟子たちが72人という数になります。一方、それを見ていたヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言ったのですが、モーセはヨシュアに「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」と言ったのです。モーセは自分一人だけが預言して、神の言葉を取り次ぐ者であるよりも、主の民のすべてが預言者になればいいのに、と言っているのです。これは、私たちの教会 プロテスタント教会が万人祭司といっていることとつながります。一人一人が神との交わりの中で生き、自分と神との関係の中で信仰的に決断をしていくことが、教会の原点だからです。

主イエスに選ばれた72人はその出来事と重ねられます。すなわち、主イエスによって霊を受け、主によって悪霊を追い出したり、人々の病を癒し、祝福する権能が与えられた弟子たちがいたのです。それは、一人一人が主の霊を受けていく、ということになります。主の霊を受ける、ということは、奇跡的なことを起こせるようになるとか、難しいことが分かるようになるということではありません。

ここで、主は「収穫は多いのに、働き手が少ない」と言われています。神の国に刈り入れられる実りは多いのに、それを収穫する働き手がいない、と言われるのです。主が72人を派遣したということも、72人が主の霊(権能)を受け、収穫のための働き手として遣わされるためだったのです。主の権能を受ける、ということは、何よりも神の国の働きのためであり、自分中心の生き方のためではありません。

以前、あるキリスト教入門書が牧師の間で話題になったことがありました。その入門書ではキリストの復活は歴史的に起こったかどうかということは検証できないけれど、復活の証言者がいること、その弟子たちが皆180度転換して神のため、世のために働くようになったことが、何よりも証拠だと言えるのではないか、と書いてありました。さらに、誰でもキリストを信じることで神の子になれるのだ、とも書いてありましたが、ある人が、こんなことを書かれていいのか、というのです。「私は神の子になりたいので洗礼を受けさせてください、という人が現れたらどうするのか」というのです。

しかし、ここには「神の子」に対する誤解があります。聖書が語る「神の子」は、神のために働く者であり、世にではなく神に属する者という意味です。「神の子」になって自分勝手に好きなことができるようになるのではありません。ヨハネによる福音書で主イエスは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。かなえられる」とあります。主イエスの言葉が私たちの内にとどまっているところで、私たちは自己中心的な願いを願おうとは思わなくなるのではないでしょうか。キリストを信じて神の子になるということも同様です。

神の子となる、主の権能を受ける、ということも神の国のためであり、この72人だけでなく、キリストにつながるものは、皆そのために召されているのです。

収穫が多い?

 ところで主は、そこに「収穫は多いが」と言われます。そして、刈り入れる働き手を求めておられます。ここで、少し立ち止まらざるを得ません。なぜなら、私は伝道というのは「種まき」として例えられると考えているからです。まだ本当の神のことを知らない人たち、主イエスのことを知らない人たちが大勢いる、その人たちに福音の種を蒔くことが伝道だと考えています。キリスト教国ではない日本ならばなおさらのことです。沖縄にベッテルハイムという宣教師が来て170年以上の年月が過ぎていますが、未だに日本はキリスト教の信者が1%未満とのことです。キリスト者が100人に一人いるかいないかということになります。

本当に収穫は多いのでしょうか?まだまだ種まきの段階ではないか、と思うと、少し考え込んでしまうのです。

主イエスの時代は、イスラエルの民によって種が蒔かれ、メシアを待望している人たちが大勢いました。すべての民が正しいメシア理解をしていたというわけではありませんが、ユダヤ人たちが信じる聖書を、他の民族の民も知りたいと思う人たちもいました(使徒言行録にもエチオピアの高官がイザヤ書の一部を読んでいる場面があります)。その意味では、異邦人たちにもイスラエルの神は認知されている面もありました。

そこから考えると、この日本は非キリスト教国だといっても、キリスト教や聖書に関心を持っている人、どこかでその考えを聞きかじった人は多いのではないでしょうか。そうした人々は、心の奥底では本当の福音を求めていると考えることもできます。

先日、吉原光夫という俳優がテレビに出ているのを見ました。朝ドラ「エール」の馬具職人として認知された人です。もともとミュージカル俳優として有名な方で、特に「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャン役を史上最年少で演じた人として注目されたことがあったようです。番組の中で、ジャン・バルジャンの歌が披露されました。ジャン・バルジャンはパン一切れのために何十年も監獄に囚われ、仮釈放中に、教会の司祭の銀の食器を盗んでしまいました。しかし、その教会の司祭がそれはわたしがあげたものだ、と彼を赦したところから、ジャン・バルジャンは生まれ変わろう、新しい生き方をしよう、と決意をしました。その時の歌が歌われました。無条件の罪の赦しとそれを受けて回心する姿が描かれています。それを聞きながら、このように福音の種が蒔かれているかもしれない、と感じました。誰もが、そのような罪の赦しを求めているのではないか、新しく生きたいと思う姿が現れているように感じたのです。

また、昨年12月に亡くなった安野光雅さんの『天は人の上に人をつくらず』という小冊子を読みました。キング牧師やリンカーンの事に触れ、人は皆平等であることは、神あるいは天が示していることだ、と述べていました。キング牧師の「わたしには夢がある」という文を読むと、心がいつも震えるとのことでした。人種の平等問題や男女平等のことも、LGBTQのことについても、世の中で話題にならないことはありません。人と人は本来平等でありたい、と思いながら、その根拠はもしかすると希薄かもしれません。突き詰めて考えると、神なしに、誰もが同じ生きる意味や価値を持っているとは言いきれないのではないでしょうか。

従って、既に種は蒔かれ収穫を待っている人々がいるのです。もっとも収穫が多いかどうかは、わたしには分かりませんが、少なくとも主イエスは、そう見ていてくださるのです。収穫を待っているのに刈り入れる働き手が少ない、なんともったいないことか、と思われているのです。

主イエスは、72人の弟子たちを派遣し、彼らを迎え入れる家や、反対に受け入れない家のことなども述べます。主の権能をもってしても、受け入れる人もいれば、受け入れない人もいます。受け入れられなければ、私たちには恐れが生じます。しかし、受け入れない人がいることもまた主はご存知です。それを働き手のせいにされません。

働き手は、ただ主の命じるままに、町々をめぐり、共に食事をし、病人を癒して、癒された人々に「神の国はあなたがたに近づいた」と言ったのです。(なお、72人の弟子たちの成果は、10章17節以下に記されています)。

レントの旅が始まりました。自分自身と主イエスとの関係を見つめ直す時です。特に主の十字架との関係においてです。それに加えて、今日の聖書から次のことを考えています。

主イエスの福音はこの世に埋もれています。直接的に聖書やキリスト教が語られていなくても、福音の種は蒔かれ芽生えていて、もしかすると大きく成長をしているのです。わたしたちはそれを発見していく旅に招かれています。レントの期間、内省は必要ですが、暗い気持ちで過ごすのではありません。その旅は、主イエスがここにも働いていてくださることを発見をするというワクワクしたものではないでしょうか?

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