聖書
旧約聖書 エレミヤ書6章8節 (旧約p1186)
福 音 書 ルカによる福音書19章28~44節 (新約p147)
説 教 「主がお入り用なのです」 柳谷知之牧師
子ろば
主イエスは、エルサレムに向かいました。いよいよベトファゲとベタニアという町に近づいた時、二人の弟子たちを使いに出されました。
「向こうの村に行って、まだ誰も乗ったことのない子ろばがつないであるから、それをほどいて引いてきなさい」と言われました。
「『なぜほどくのか』と誰かに尋ねられたら、『主がお入り用です』と言いなさい」と言われました。
その通り弟子たちが行い、主イエスは、子ろばに乗って、エルサレムに入城されたのです。
まだ誰も人を乗せたことのない子どものろばが、主イエスのエルサレム入城のときに選ばれました。
そのように主イエスは、小さいもの、名も無きもの、取るに足りないと思われている者を大いに用いられるのです。
この子ろばを「ちいさなろば」と呼び、さらにそれを縮めて「ちいろば」と呼んで、自分に重ねた牧師がいました。
榎本保郎という牧師です。日本でアシュラム運動という祈祷運動をはじめた方で、朝起きると、何時間も祈っていた、ということが伝えられています。京都の世光教会を建て、今治教会を牧された方としても知られ、何冊も本も書かれていて、古い著書が最近復刊されてもいました。
そして、榎本保郎牧師は、この「ちいろば」の喜びと感動そして誇らしい気持ちはどれほどだっただろうか、と想像し、自分もその「ちいろば」のように「主イエスのために、神様のために、喜んで駆け回る阿呆になりたい」と言って、このちいさなろばの子にならって生きようとされたのです。その歩みは、三浦綾子の小説「ちいろば先生物語」にもなりました。残念ながら、52歳で天に召されましたが、その働きは今も語り継がれ、アシュラム運動は今も続いています。
この出来事には、主イエスがこのろばのことを前もって知っていた、という少し不思議なことがありますが、そこにも、主イエスが私たちを前もって見ていてくださる、知っていてくださるということが示されていると思います。
また、ろばの子は、平和の象徴です。
ゼカリヤ書の言葉が響きます。
「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」(ゼカリヤ9:9)
主イエスが、平和をもたらす者として、しかもへりくだり、強権を振るう者としてではなく、エルサレムに入城されたのです。
人々の歓迎
人々は主イエスを歓迎しました。自分の服を道に敷いて、声高らかに讃美したのです。
「主の名によって来られる方に、王に、祝福があるように。天には平和。いと高きところには栄光」と。
他の聖書箇所では、人々はなつめやし(以前の訳では棕梠)の枝や葉を敷いたので、この日が棕梠の主日と呼ばれています。「主の名によって来られる方」とは、イスラエルの人々が待ち望んでいたメシアを指します。
主イエスをメシアとして歓迎したのです。
そのような人々の歓迎を抑えようとした人がいました。
ファリサイ派の人々でした。弟子たちを叱ってください、と言ったのです。
彼らにとって、主イエスをメシアとして歓迎することはできませんでしたし、主イエスをメシアとすることは、神への冒涜だ、とまで考えることもあったのです。あるいは、このように熱狂的な人々の集まりがあると、ローマ軍によってエルサレムが占拠されてしまう、という恐れもあったのかもしれません。
しかし、主は、「これらの人々が黙れば、石が叫び出す」とまで言われます。
権力を持っている者たちは、民衆の声を抑えようとします。しかし、真実の求めを抑えることはできないのです。ましてや主イエスのことについて、石のようなものさえも叫び出すような出来事だったのです。
エルサレムの最後
エルサレムの人々に歓迎されながらも、主イエスは、そのエルサレムのために嘆きます。
エルサレムが滅びるときを預言されるのです。
聖書学者の中には、これは後の時代、エルサレムがローマとの戦い(ユダヤ戦争)で滅びた後で、語られたことではないか、と解説する人も結構います。主イエスを神格化するためだと。
しかし、洞察力のある人は、事前にあらかじめ起こる出来事を言い当てることがあります。
たとえば、夏目漱石の『三四郎』において、主人公の小川三四郎が東京行の列車に乗っている時に、列車の客と話をします。日露戦争が終わり、いよいよ日本も発展するでしょう、みたいに三四郎が言うと、広田先生が「滅びるね」と言います。日露戦争後、日本は一等国になった、などと浮かれているのですが、その様子から既に滅びがはじまっている、と夏目漱石は見ていたのだろうと思います。
そのように、人々が本来あるべき姿を忘れて、欲望に囚われていたり、自分勝手な思い込みの中にある時、その社会は立ち行かなくなるのです。
主イエスの十字架の歩みは、そのような人間の罪を思い起こさせるものです。
ですから、この現代においても、よく聞かれなければなりません。
また、主の十字架は、どんなに科学が発展し、民主主義的な世の中やグローバル化が進んだとしても、私たち人間の心に響く出来事なのです。
主の平和と滅びに至らないために
主は、平和の君として来られました。
それは、皆が望むような力による支配ではありません。
力による支配、暴力による支配は、大きな力を望むようになり、それはどこかでぶつかり崩壊にいたるのではないでしょうか。
この時代においても、戦争は無縁ではありません。
よりひどいことにならないように、と願い、一日も早い平和を願うとともに、難民となった人々や取り残された人々の命がこれ以上奪われないようにと祈ります。
そして、主の十字架は、最も厳しい状況において、主は最も弱い者、名も無き者として来られることを現します。
戦火があるところ、理不尽に殺される子どもたちや人々の中に、飢え渇き、着る物を失い、住まいを失ったものたちの中に、獄に囚われているものや病の者たちの中に、主は最も小さい者の一人としておられるのです。(マタイ25章40節)
いと小さき者と共にいてくださる神、それが私たちの主イエスです。
また、その小さな者を用いてくださる方です。
小さな者は、場合によってはいじけてしまったり、さらに小さい者をたたこうとしてしまいます。
しかし、どんな存在にも目をとめ、神のご計画をあらわそうとされるのが主イエスです。
この主イエスのもとで、わたしたちは、本当の自分自身になることができますし、そこには、比較や競争によって自己を実現しようとする必要はまったくなくなるのです。
誰もが、そのような主イエスに招かれていることは、どんなにうれしいことでしょうか。