2020年12月13日 礼拝説教

聖 書
旧約聖書 士師記13章3-5節 (旧約p404)
福音書  マタイによる福音書11章2~10節 (新約p19)

説 教 「私たちの先駆者」    柳谷知之

ナジル人としてのサムソンの誕生

アドヴェントの第三主日は、多くの教会暦において洗礼者ヨハネについて聞くときとされています。

本日与えられている旧約聖書は、士師記です。サムソンという怪力の勇者が誕生するときのことです。マノアという男性の妻が不妊でした。そこに主のみ使いが現れて、「あなたは身ごもって男の子を産むであろう」とメッセージを伝えました。そして、生まれる子は、ナジル人として神に献げられている」と言いました。

ナジル人については、民数記6章に規定があります。

男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない。ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり、髪は長く伸ばしておく。…」

 もともとは、神に誓願を立てる人で、神に献身する人をナジル人と呼んでいました。ナジル人は、ぶどうの実からとったものは、お酒だろうと乾しぶどうだろうと口にしてはいけませんでした。また、髪を伸ばし続けておかなければなりませんでした。主に選ばれた者として、そのような規定に従う者がいたのです。サムソンは怪力でしたが、その秘密は髪の毛にあった、とされています。

そのサムソンと、洗礼者ヨハネは次のことで結びつきます。

まず、不妊の女と呼ばれた女性から生まれました。洗礼者ヨハネは、ザカリアとエリサベトという年老いた夫婦から生まれました。これは、神による出来事であることを示します。また、神は不妊の女を顧みられる、ということです。当時(今も結婚した人にはプレッシャーがあると聞きますが…)、結婚しても子どもがいない夫婦は、一人前と認められませんでした。それだけでなく、彼らは神から祝福されていないのだ、と思われたのです。しかし、神の視点は違います。子どもがいるかいないに関わらず、その個人を見てくださるのです。結果的には子どもが与えられましたが、そのことが重要なのではなく、神は、子どもが与えられなければ完全な家庭ではない、という価値観を持っていないのです。

次に、サムソンはナジル人として、髪を伸ばし、つよい飲み物(ビールと言われることもある)、ぶどう酒を飲みませんでした。洗礼者ヨハネは、荒れ野で禁欲的な生活をしました。「彼は…ぶどう酒も強い酒を飲まず…」(ルカ1:15)そのような姿が、ナジル人ともつながります。

 さらに、サムソンは士師として、イスラエルのリーダー、裁き司として活躍しましたが、サムソンの出来事は、より狭い地域での出来事でしたが、やがてくるペリシテ人からイスラエルを救う先駆けとなっています。洗礼者ヨハネも救い主イエスの先駆けであり、救いの始まり(悔い改め)を告げ知らせました。

4つ目に、士師の時代は、本来、イスラエルを治めるのは、人間の王ではなく、神である、という考え方によって成り立っています。最後の士師であったサムエルの時代、人々は、強い国を目指し、自分たちにも王が必要だ、とサムエルに要求したのです。その様子は、サムエル記上の8章に記されています。

旧約聖書的に考えると、絶対王政とか王権神授説といった考え方は生まれません。神が油を注がなければ王にはなれないのです。神こそが人間の王の上に立つ王であり世を支配される方です。ですから、神の御心に背く王がいれば、預言者は批判し悔い改めを求めるのです。神のみを信頼しない王に対して、列王記や歴代誌に登場する王は、批判されています。士師は、そのような王制の考え方を表し、ダビデ王朝といっても、神の御心がなしていることであり、救いが神から来ることを表しているのです。それは、洗礼者ヨハネが示す方向と同じです。

これらによって、サムソンは洗礼者ヨハネと重ねられるところがあります。

洗礼者ヨハネ

そして、マタイによる福音書を中心に、洗礼者ヨハネについて主イエスが語っておられるところから、道を備える者とは何か、ということをご一緒に聴きたいと思います。

まず、囚われの身となっていた洗礼者ヨハネ自身が、弟子たちを遣わして主イエスに尋ねました。

「来るべき方はあなたでしょうか?」と。

すると、主イエスは、「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と答えられました。

見聞きしていること、とは、目の見えない人が見えるようになり、歩けない人が歩くようになっていること、重い皮膚病の人が治って清くなっていること、耳が聞こえない人が聞こえるようになり、死者が生き返り、貧しい人が福音を告げ知らされている、ということです。

主イエスの奇跡的な働きによって、これらのことが生じていたのですが、これらの言葉には、単に物理的だけではない意味が示されています。目が見える、耳が聞こえる、ということが、心の目を開き、神の御声を聴く力を回復することを表します。そして、これらの奇跡をまとめる形で、貧しい人が福音を告げ知らされているということになります。これはイザヤ書61章の成就と考えられます。

「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせ(福音)を伝えさせるために」(イザヤ61:1)

貧しい人とは、経済的に貧しいこと、困窮している人々も示しますが、そうした人も含めて、世にあって理不尽な思いをしている人々だと言えます。社会の不正のために苦しい思いをしている人々です。その人々は、神の義を求めます。理不尽な目にあっているが故に、神が必ず正しき世、欠けのない世界をもたらしてくださると希望するのです。その人々が、福音を告げ知らされているのです。

洗礼者ヨハネは、その主イエスの道を備えました。それは、悔い改めへの道です。

悔い改めは、考え方を切り替えることです。自分の無力さをしることです。ヨハネは、当時の世の常識的な考え方を覆すこともありました。洗礼者ヨハネは、人々にこう語りました。

「『我々の父はアブラハムだ』」などと思ってもみるな。神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ3:9)と。

律法を守っていれば、神の国に入る事ができる、永遠の命を得ることができる、と思っていた人々が多かった時代に、洗礼者ヨハネはその考え方を根本から変えていきました。それが、主イエスを迎える道の備えでした。

「こんな石からでもアブラハムの子を造り出す」ことと結びつけると、主イエスは、ユダヤ人であろうとギリシア人、ローマ人であろうと神の恵みによって義とされることを示されました。罪人と言われて排除された人々も、徴税人たちも重い皮膚病や障害を持った人々も主イエスを信じることで救われました。

主の来臨を待ち望む

クリスマスを迎えるにあたって、わたしたちは世の終わりを意識させられます。終わりの時はいつであるか分かりませんが、世は終わりに向かっています。ですから、備えている必要があります。

今なお、世にあって理不尽さがあります。人間の尊厳が奪われています。

これまでにも、主の道を歩まれた多くの人々います。その人々が、私たちの先駆者として、道を示しています。神と向き合い、弱さを力に変えていく道であり、罪深き中にも人間の尊厳を示していく道です。なによりも、主の赦しの中に生きた人々がいるのです。主イエスの弟子たちや聖書の登場人物も含めて、わたしたちを主に立ち帰らせる歩みが、先人たちの歩みにあるのです。また、わたしたちもこれからの人たちのための道を備える者とさせられているのです。+

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