聖書
旧約聖書 列王記上17章22節(旧約p562)
福 音 書 ルカによる福音書11章29-32節 (新約p129)
説教 「人の子のしるし」 柳谷知之
ヨナのしるし
主イエスは言われます。
「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と。
「ヨナのしるし」とは何を意味しているのでしょうか?
(ヨナの物語について)
ヨナとは、ヨナ書に記されている預言者のことです(ヨナ書 旧約聖書1445~1448頁)。
この預言者は、神様から召命を受けて、ニネベに行くように言われましたが、どうしてもニネベには行きたくありませんでした。ニネベという町は、ヨナが活躍した当時のアッシリア帝国の首都でした。アッシリア帝国は、イスラエルの民を常に脅かしていましたし、異教の神々を信じていました。ヨナはそのような異民族のところに出かけたくなかったのです。彼は、ニネベに向かわずに、商船にのってタルシシまで行こうとしました。
しかし、途中大嵐になりました。その嵐の原因はヨナであることがくじびきによって分かったため、ヨナは荒れた海の中に放り込まれました(ヨナ自身が、この嵐の原因が自分だから、自分を放り込め、と言ったのです)。そして、嵐は静まったのですが、神様が大きな魚を用意されて、ヨナを飲み込ませました。ヨナは、その魚のお腹の中で三日三晩いて、祈り、悔い改めに導かれたのです。
そして、彼は再び神様の言葉を受けて、ニネベへと向かいました。
ヨナは、ニネベに着くと、こう宣言しました。
「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と。するとニネベの人たちは、悔い改めて神様を信じました。
その様子を見ていた神様は、滅びの宣告を思い直して、ニネベを滅ぼされませんでした。
その後、ヨナは神様に不満をぶつけますが、そのヨナに対して、神はイスラエルの神だけでなく、ニネベの人たちをも支配され、滅ぼすには惜しいと思われていることを語るのです。
こうした物語の中に「ヨナのしるし」が意味されています。
まず最初に出てくるのは、ヨナが三日三晩魚のお腹の中にいて、そこから新しい命を受けて地上にもう一度立った、ということです。このことが、主イエスの復活と重ねられます。
さらに、主イエスの死と復活は、主イエスのことだけに留まりません。主イエスの死と復活を通して、私たちもまた古い自分に死に、新しく生きるということに導かれているのです。そのことのほうがむしろヨナのしるしと言えないでしょうか。すなわち、ヨナは最初に神様の言葉に逆らい、神様から逃れようとしたのです。しかし、その道は、大嵐を招き、結局、自ら海に沈められ、そこで魚のお腹に救われたのでした。三日三晩暗闇の中で祈り続け、そこで悔い改めて、神様が示される新しい道に生きる事を決断したのです。
ヨナのしるしとは、そのように一人の人が生まれ変わる、新しい生き方をする、ということに現れています。
今の時代のよこしま
一方、主イエスがこのことを話されたのは、人々が集まって大勢に増えてきたからでした。今の時代の人たちがしるしを求めている、ということに対して、「ヨナのしるし」以外には与えられない、と言われたのです。
しるしを求める、とはどういうことでしょうか? 主イエスは、邪悪であるから、しるしを求めるのだと考えられています。邪悪だとかよこしまというのは、人を貶めたり、不正を働いたりすることではないかと思うと、しるしを求める、ということがどうして邪悪なのか、よく分からなくなります。
聖書が語る邪悪さ、というのは、神の道から外れる、ということです。
そして、その邪悪さは、結局自分中心にいる、ということです。
主イエスが十字架につけられたとき、次のような言葉が主イエスに浴びせられました。
「メシア、イスラエルの王よ、十字架からおりてみろ、そうすれば信じてやろう」と。
自分は少しも変わろうとせず、しるしを見たら信じようとする姿は、とても傲慢ではないでしょうか?
わたしたち自身もこのような姿になっていることがあるかもしれません。
神さまは愛であるとか、恵みである、と言われながら、ちっともそのような出来事がない、と思えることがあります。もし、神様が愛であるなら、わたしに恵みをもっと体験させてほしい、そうすれば、もっと神様を信じられるのに、と思うことがないでしょうか?
しかし、信じるとは別なところに立ちます。
主イエスは、疑い深いトマスに対して「見ないで信じる者は幸いである」と言われました。
トマスは、「主の十字架の傷のあとに手を入れてみなければ信じない」と言っていたのです。
「○○だったら信じよう」、「××だったら信じることができるのに」という考え方は自分中心に考えていることになります。しかし、信じるからこそ、見えてくることがあったり、決断できることがあるのです。
ですから、主イエスは、ご自身の十字架と復活のしるし以外にない、と語るのです。
すなわち、わたしたちにとって、主イエスの十字架と復活以外に、神を信じるしるしはないのです。
十字架は、世の苦難や理不尽さを現します。そして、困難なことがあれば、誰でも心くじけ、人を恨んだり、自分を恨んだりするしかないものかもしれません。それは、わたしたちの常識から考えれば当然かもしれません。
困難や不幸とも思える出来事があって、誰かを恨んだり、自分を呪ったりして生きていってよいのでしょうか。
自分に与えられた困難な出来事、不幸にも思える出来事にも、神様はわたしたちにメッセージを送っているのだ、と信じるところから、わたしたちは自分の人生を別な目で見ることができるのです。そのほうが、むしろ自分の人生を生きる事につながります。人のせいや出来事のせいにして、ふさぎ込む日々は終わっているのです。
そこには、人生に期待する者から、人生から何が問われ期待されているのか、という方向転換があります。
理不尽な目に会う時に、どう生きるか、ということになります。その出来事に意味を見出すといっても、それは人によって異なるでしょう。理不尽さと戦うことによって、その人の人生が輝くこともあります。または、それを受け入れつつ、二度と同じような思いをしないことを心掛けたり、同じような思いをしている人を慰めたり励ます役割を負う人もいることでしょう。主イエスの十字架と復活によって問われることはこのようなことではないか、と考えています。
罪の赦しをもたらす者としてのしるし
さて、もう一度ヨナのしるしについて振り返ります。
ヨナは、もう一度命を得て、ニネベに向かい、悔い改めるよう宣言をしました。しかし、いざニネベの人たちが悔い改めてしまい、神様の罰が下らないことをみると、不平不満を持ちました。ニネベの人たちに滅びてほしかったのです。しかし、神様はそのニネベの人々を赦されたのです。神様は「どうして、わたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」とヨナを諭したのです。
神様は、厳しく罪を問われる方です。南の国の女王やニネベの人々は、終わりの裁きの日に、今の時代の人々を罪に定める、と語ります。しかし、彼は罪を犯さなかったのではありません。罪を悔い改めたのです。神様は罪人が滅びるのを喜ばれません。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」(エゼキエル33:11)と言われています。
神が罪を厳しく問われるのは、悔い改めに導かれるためです。ですから「ヨナのしるし」が最後に示すのは、「赦し」のしるしです。そして、主イエスこそ、ヨナに優る者として、私たちと共にいてくださる方です。この方こそ、私たちに新しい生き方と、永遠の命を約束してくださる方です。