聖 書
旧約聖書 エゼキエル書18章23節 (旧約p1322)
福 音 書 ルカによる福音書18章9~14節 (新約p144)
説 教 「罪人のみが招かれる」 柳谷知之牧師
高慢の罪
人間関係がうまくいかないひとつの要因として、「高慢な態度」が挙げられます。「上から目線」にならないように、などと言われ「高慢」は批判されます。様々な支援についても伴走型、同じ目線で、ということが大切にされます。
人の高慢な思いはどのようなところから生まれるのでしょう。
そのことを思いめぐらしつつ本日の聖書から聞いていきます。
主イエスのたとえ
主イエスは、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して一つのたとえをされます。
二人の人が神殿で祈りをささげます。
一人はファリサイ派の人で、彼は、自分が罪人でないこと、汚れた者でないことを感謝します。神の言葉である律法を完全に守ることができていることを感謝します。
もう一人は徴税人で、彼は、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言いました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と言いました。
これら二人のうち、神の前に義とされたのは、徴税人である、と主は言われます。
ファリサイ派の人々は、このたとえを聞いて、自分たちが冒涜されたと感じたかもしれません。主イエスの批判は厳しいものがあります。
しかし、主イエスはファリサイ派の人たち、自分を正しい人間だと思う人たちにも、心を入れ替えてほしいと願い、あきらめずに語っているのです。
自分を正しい者とすること
では、何故ファリサイ派や律法学者たちの多くが自分を正しい者と考えていったのでしょうか。
当時の律法主義の背景には、バビロン捕囚以降のユダヤ人社会の変遷を考えることができます。
バビロン捕囚期において、ユダヤ人たちは自分たちが神の律法を守ることができなかったから神の罰として国が滅びたのだ、と考えました。エズラ記やネヘミヤ記を見るとエルサレム帰還当時の様子を伺うことができます。無割礼のものを廃し、神以外の神に従わないことを誓います。ユダヤ人からみて異邦人と結婚している人たちは別れさせられました。安息日を厳格に守り、モーセを通して与えられた律法を守り抜こうとしました。もともとは律法を守るのは救いの条件ではありません。十戒を見ると、まず神がイスラエルの民をエジプトから救われたことが語られます。すなわち救われた恵みに感謝するからこそ律法に従うものとされるのです。救われた恵みを思えば、あなたがたが主なる神以外を神とするはずがない、というのが十戒の精神です。しかしそれがやがて律法主義に変わってしまいました。なぜなら、人間は自分が救われているかどうか確信を得ないと不安になるからです。また、神の裁きによって自分達の社会が滅びてしまうかもしれない、そのような恐れから、救いの保証が必要でした。そして律法を熱心に守ることができる人々は、自分たちが守ることができることを救いの保証としてしまったのです。
似たようなことが、宗教改革時のプロテスタントの人々にも見られました。神は救われる者と滅びる者をあらかじめ予定されているという教えが、人々を不安に陥れます。そして、救いの確信を得るように人々を動かします。その結果、社会的労働においても「神の栄光を現すかどうか」を問うようになり、徹底的に禁欲的、合理的生活を課すようになったのです。マックス・ヴェーバーという人が『プロテスタンティズムとキリスト教倫理』の中で、救いの保証を得ようと禁欲的合理的生活の中で蓄積された富が資本主義の発展に寄与した、と述べています。すなわち、禁欲的節約が進められて資本が形成されます。蓄積したものを贅沢に消費することを抑制し、財産を生産的に用いることを促したのです。つまりは投下資本としての素地ができあがっていくのです。
問題は、二つあります。一つは救いの保証を得たと感じた人々が、そうでない人を差別したり、蔑んだりすることではないか、と考えられます。禁欲的合理的な生活ができない人たちと比較して、自分たちを恵まれている側に置いてしまうのです。もう一つは、救いの保証を得ることが恐れから始まっていることです。恐れは、人の心に壁を生じさせます。私の尊敬するある方は、主イエスが共におられるならばたとえ地獄行きだとしても大丈夫だ、と言っていました。主が共にいてくださると確信できるならば、それ以上の救いの保証は必要ないのではないか、と思います。
人は、自分に自信がない時にこそ人と比較してしまいます。まだまだだとか自分はだめだ思うことがあっても、自分より下と思う人を見ると安心してしまいます。劣等感や優越感は表裏の関係にあり、人が本当に自分自身を受け入れているかどうかとは別なことです。
人との比較ではなく、神との関係を築くことが求められています。
それはただ御言葉を通して、神の声を聞く以外にありません。
神の言葉は、恵みの言葉ですが、時には戒めや裁きの言葉としても響きます。しかし、それに真摯に向き合うのであれば、自分自身を本来歩むべき道から外れていても、立ち帰る道を与えることになります。主の言葉に聴くことは、自分自身と向き合うことを余儀なくされるでしょう。
エゼキエルを通して神は
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」と言われ、神から離れてしまった人が立ち帰ることを何よりも望まれるのです。
徴税人のように胸を打ち、自分自身が罪深いと思える時ほど、神に近いと言えるのではないでしょうか。
神の選びと救い
神が招かれるのは「罪人のみ」です。神に造られた人間で、罪と無縁のものはいません。
だからこそ「丈夫な人に医者はいらない」と主は言われています。
主イエスの十字架の出来事を自分のこととして受け止めることができるのは、自分の罪を知るからこそです。
私たちは誰も神ではありません。神から見るならば不完全な者であり、弱さを抱えた者です。もし完璧であることを良しとし、そうでなければ救われないとするならば、かえって人の目を気にして、不完全な自分や弱さを隠そうとしてしまうでしょう。
キリストを十字架に追いやったのは、当時の人々の罪のせいだ、として、自分と無縁のものとはできません。聖書に登場する人物を通して、そこに描かれている弱さは、私自身のものである、と感じざるを得ないのです。しかし、そのようなわたしたちを神は赦してくださり、新しい命、復活の命に生きるように導かれるのです。
神を信じる者は、「弱さこそ力である」ことに気づかされます。神の力は人の弱さの中でこそ発揮されるからです(Ⅱコリント12:9)。
また、そもそも罪人である私たちは、パウロの次の言葉にも同意できるでしょう。
「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。…神は知恵ある者に恥をかかせるため、世世の無学な者を選ばれました」(Ⅰコリント1:26,27)。
人の目ではなく、神の目によって私たちは選ばれています。それがわたしたちを劣等感や優越感から救う道です。人との関係において壁を壊す道となります。
神との関係に導かれる者は、”個”として立つことに恐れがなくなります。
過去から未来に貫く主の恵みと導きはいつもあなたがたと共にあるのです。