聖 書
旧約聖書 サムエル記上26章9節 (旧約p472)
福 音 書 ヨハネによる福音書14章1~11節 (新約p196)
説 教 「命につながる道」
心を騒がせる弟子たち
主イエスは言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」
「心を騒がせる」とは、心が波立ち揺れるということです。
かつて東日本大震災があった年2010年のローズンゲン(日々の聖句)の年間聖句がこの箇所だったと思います。新生釜石教会の牧師で私の弟の柳谷雄介牧師は、この聖句を2010年度の新生釜石教会の年間聖句として曲をつけました。大津波(2011年3月11日)が襲う少し前に曲ができた、とのことでしたが、震災後、様々な場面でこの曲が歌われました。大津波の後、原発事故の後、不安がある中で、この聖句は多くの人を慰めたのではないか、と思いますし、私自身も気が付くとこのフレーズを口ずさんでいることが多くありました。
天変地異や大きな出来事だけでなく、人を不安にさせる出来事は絶えません。新型感染症の問題も大きいものとしてあります。個々人にも様々な出来事があることと思います。
本日のヨハネによる福音書は、主イエスが十字架につけられる前に、弟子たちに話をされた場面です。主イエスが、間もなく自分たちのもとからいなくなってしまう、ということ、自分たちの中に主イエスを裏切る者がいること、ペトロが主イエスを三度否認するということを聞いて、弟子たちは動揺しました。心が乱されました。そのことを主イエスは知り、「心を騒がせるな」と言われました。
そして、神を信じ、主イエスを信じるように言われました。主イエスは、このことを言われる前に、弟子たちに次のように言われています。「わたしが行くところにあなたたちは来ることができない」と。
主イエスに従いここまで一緒に来たのに、これから先は来ることができない、ということは、弟子たちは、主イエスと離れ離れになってしまうということになります。そのような主イエスが、なおも、私を信じなさい、と言ってくださっているのです。
「信じなさい」という命令ですが、それは「神を信じ、主イエスを信じていいのだ」という慰めの言葉です。心怯えるとき、不安に思うとき、主イエスがそばにはいない。何に頼って良いか分からなくなります。しかし、主は言われるのです。神を信頼し、私に頼りなさい、と。
主は言われます。「わたしが父のもとに行くのは、あなたがたの場所を用意するためである」と。
「父の家には住むところがたくさんある」と主イエスは言われますが、「住むところ」とは「留まるところ」です。その言葉は「ぶどうの木につながる」というときの「つながる」ということも意味しています。ですから、「父の家には、(あなたがたが父に)つながる場所がたくさんある」ということになるのです。
それは、弟子たちが、神の御許に行くことができる、という死後の世界だけを現すことではなく、この地上においても神とつながるためである、ということにもなります。すなわち、弟子たちが神と共に生きる事ができるように、主は父のもとに行かれたのです。
主イエスは、ご自分が十字架につけられ、ひと時の間、弟子たちの前からいなくなったわけですが、それは、弟子たちが神と共に生きるようになるためだということになります。
一方、主は「あなたがたはわたしがどこに行くのか、その道を知っている」と言われました。
しかし、ここでトマスが言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません」と。
弟子たちはまだ主イエスがどこに行かれるのかこの時点では気づいてはいないのです。
わたしは道である
そこで主イエスは次のように言われました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ誰も父のもとに行くことができない。」
ヨハネによる福音書は、特に主イエスと神との関係が分かちがたいものとして述べています。主イエスご自身の言葉として、主イエスが神に等しい方であることが語られています。
「言は神であった。」(1:1)、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)、「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」(3:35)、「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(5:30)、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」(6:46)、「わたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」(8:16)…などなど
主イエスによって現された神を私たちは信じています。そして、信じるというのは、一つの道です。道は歩いてこそ道です。すなわち主イエスを信じるというのは、知識を蓄えたり経験を豊富にすることではありません。主イエスと共に歩む道であり、もし主イエスがそばにいてくださったらどうだろうか、という思いで生きることです。
わたしは真理である
同時に、主イエスは、「わたしは真理である」と言われます。真理と聞くと、永遠に普遍的に正しいことを意味するように思えます。人間の尺度に基づいて相対的な事柄があるなかで、絶対的に正しいことを意味しています。またそこには知的な意味が込められているように見えます。一方、ヨハネによる福音書には次のような言葉があります。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(1:17)
わたしはヨハネによる福音書は、独特の形で旧約聖書、ヘブライ思想の影響を受けていると考えられていますので、旧約聖書の言葉で考えると、「恵みと真理」は、「慈しみとまこと」がもともとの言葉ではないか、と思っているのです。その場合、真理とは、神のまこと、真実であり、神がまことのこころをもって、わたしたち人間に関わってくださる、ということを意味します。主イエスは、神の御心を現した方であり、神の真実、神のまことを現した方です。そして、神のまこととは、罪深い人間、自分の力ではどうしようもなく泥沼にはまってしまうような人間にたいして、救いをさしのべることを意味するでしょう。ですから、主イエスは、神のまことを現す方であるということです。
わたしはいのちである
さらに、主イエスは「わたしはいのちである」と言われます。主はこのあと「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(17:3)と言われています。すなわち、主イエスを知ること、すなわち主イエスと出会うことが、永遠の命につながるのです。
主イエスは、神と弟子たちをつなぐために、神のみもとに行かれました。すなわち十字架の道を歩まれたのです。それは、神とわたしたちをつなぐ道でもありました。罪を犯さないけれど十字架の道を歩まざるを得ないことがあることが示されました。また、それは世の中的には損な道でありますが、誰かの罪や負い目を負う歩み、があることを見ます。忌まわしい十字架にも、生きる意味と価値が示されています。そのようにしていのちの道があるのです。それは律法主義との戦いでもありました。
聖書が語るメッセージの中心は「恵みによる解放のメッセージ」(カール・バルト)であると言えます。律法主義の書としてではなく、律法においても神の恵みとしてとらえ、律法はわたしたちを束縛するものではなく、解放するものとして考えるのです。
人間のいのちは、この解放の中で発揮されるものです。自分の罪やとらわれからの解放でもあります。わたしたちは自分自身で自分のことをわかったつもりになり、限界を設けてしまうこともあります。そこから自由にされるということでもあります。
主イエスは、永遠の命を示されました。それは、この地上の生涯を終えた後にも残る命という意味ももちろんあります。しかし、大事なことは今を生きる、ということにあります。今を生きることなしに、永遠につながる道はないのです。一日一日を神から与えられた大切な日として生きる、ということ、そこに命の道があるのです。
主イエスの歩まれた道を共に歩み、主イエスによって現された神のまことと慈しみを信じていく道、それが命の道です。